ノートってなんだよって話

ノートってなんでとってるんですか?

思いつけなかったので、ノートってなんでとるのかってところからはじめます。

 

今回も、書くことで自分が何を考えているのかを捕まえるハンティング方式をとっているので、進行がもにょっていたり文字数がバカ多くなっていたりします。

それなのではじめに結論を申し上げますと、『どうしてノートをとるかによって、使い方も変わるべき』ってことです。

それではいってみましょう。

 

 

そういうわけで、ノートをとる意義から話を始めていきます。ノートを取ることになる場面はいくらかあります。

 

  • 教科書がない、教科書・プリントを見ても講義が思い出せない
  • 考える、他のことをするのに一時的に記憶を拡張しておきたい
  • 注意点や別の視点などを書き残したい
  • 手を動かして眠るのを避けたい

 

ざっと思いついただけでこんなもんです。

教科書(後から見返す便利なもの)を作るか、計算などの作業用のメモを作るか、その他といったところでしょうか。

よく聞く『まとめノート』は、知識をいろいろに区分したり、知識の位置関係を知ったりするのに使っている、もしくは教科書の改定をしているのではないかと思います。いずれにせよ、先の二点のどちらかの意図があってのことでしょう。

 

問題を解くとか、ごちゃごちゃしたものを整理するとかの、メモ的なノートの取り方について考えましょう。たとえば問題を解くときは、計算して、答えがでます。これはノートを書くときにジっと見ていた問題文からは知識量が多くなっています。

で、教科書を作っている間はどうでしょうか。あなたの知識は、写しているものと大方同じになるはずです。

 

じゃあ、写すのはいけないんだ!と言いたいのかというと、そうではありません。

メモ的な使い方の場合、何がわからないって、答えがわからないのです。たまに例外はありますが、問題文はとりあえず何かを聞いているんだなということははっきりしています。もし問題文がわからなくても、『問題文がわからない』という問題から出発しているので、結局この場合問題ありきで出発しています。

じゃあ教科書を作る場合はどうなのかといえば、写す内容そのものがわからないのです。たとえいまわかっていても、いずれ思い出しようがなくなる――それは教科書がないとか、その時の感覚ではないとかあるけれども――からこそ、書き残すわけです。もちろん写す対象と同じ程度の知識量になりますが、こちらは『何にもわからない』から出発しています。

 

ノートを書く意義、意義によって得る知識の形がわかってきました。

 

 

勉強 = ノート取る!

わたしはこう考えているフシがあります。もともとメモ魔なので、なんでもかんでもノートに取り、増えすぎた情報を扱いきれないことが多いのです。そういう特殊性癖の人間は、書くこと自体がメリットなのであまり気にする必要はないのですが、ノートを書く必要がないけどついやっちゃう場面ってのがあります。さっき少し出てきた、教科書の改訂作業です。

教科書の改訂といっても、教科書に付箋を挟んだり、多少追記する程度ならいいのです。たまに、教科書の情報のほとんどをノートに転記して、まとめ直す作業をしていることがあります。教科書のデザインを変え、テキストを変え、要するに大改訂しちゃってるパターンです。教科書二冊目の誕生です。

教科書二冊目を作る場合、そのまま転記するというよりも、端折ったり、わかりやすい比喩を添えたりと、改善をしているはずなのですが、さっきも言った通り教科書を作る場合、教科書の材料になった知識までしか得られません。編集する場合、一回教科書を読みこんで理解し、それからノートを作っていくわけですから、理解してからノートを作るまでの間は、知識の進化はみられません。なにより、もとの教科書をコピーしている時間がそこそこあるため、じゃあもとの教科書を参照しても用が足せてしまったり。

 

余談ですが、まとめノートは、あっちでは好かれこっちでは嫌われるものだと感じます。それはたぶん、まとめという単語の指す意味が、体系化なのか大改訂なのかという差にあると考えます。

 

 

知識はアップデートされます。一度書いたノートを書き換えることもあるでしょう。

この書き換える作業が面倒で、メモ的な用途以外ではそうそうノートをとらない人もいます。ただ、この方式には問題があります。記憶を脳に頼っているので、長期休暇など、忘却が発生してしまうということです。

この忘却のリスクヘッジに、教科書を書いておきたい。しかしアップデートが面倒なので更新が落ち着いてから書きたい。でも書かないと忘れたり、なんだったら書かなきゃいけないことが増えすぎて諦めてしまうかもしれない……。

大改訂のことを批判してはみましたが、彼らの行為はおろかともいえません。それはこの、言ってみればバックアップ作業をしているという意味合いによります。

 

ではこの忘却の解決策にノートは役立つのでしょうか?わたしは微妙と考えます。

忘却と言ってもいろいろです。適当に大別して、忘れたことを知っているパターン、忘れたことを知らないパターンです。前者は、『ホラ、アレだよアレ』と、忘れているけどどうしても思い出せないもの。後者は、その朧げな記憶さえ出てこずにほとんど未知のものとして扱っているもの。

で、後者までいくと、ノートだろうが教科書だろうが、その中に何が入っているのか覚えていないわけですから、それらが活用されることはありません。こういうとき、ノートそのものではなくて、常日頃ノートを見返す習慣をつけるとかしてはじめて、ノートが活用されるわけです。

前者の場合も考えます。出かかっている場合、教科書の参照は可能でしょう。ノートに分離せずとも、教科書に書いとけばええやんというのは、ノートにわざわざ取り出さなくても、このように参照できるから言われているのではないでしょうか。

 

 

つまり、ノートはほとんどの場合とることはないのです。

計算メモか、教科書がない場合か、眠気覚ましかになります。もし教科書に補足したいのであれば、そこに直接やればいいのです。

もちろん、複数人でのWikiや、独自の検索システムを持っているとかになれば話は変わってきますが。

いずれにせよ、どういう状況で、何を必要としてノートをとるかで、付き合い方を変えてやるという姿勢は必要なように思います。

 

ああ、ちなみに、このブログはごちゃごちゃしたことを整理するべく、新しい知識をハンティングするためにやっています。たまに、教科書的な書き方をしているパターンもありますが。そういう考え事ツールである関係上、今回は後半特にゴーイングマイウェイ、要するに錯綜しているので、何言ってんだ?ってなったらコメントまで。

 

そんな感じです。