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ナルシスト或いは完璧主義は矯正すべきではない

ナルシストや完璧主義は、たびたび解消すべきものとして槍玉にあげられやすいのですが、そうではなくて…という話をします。

もったいぶらずに結論から出しますと、『ナルシストも完璧主義もうまく利用すればいいエンジンだ』というものです。

 

それではいってみましょう。

 

 

まず完璧主義について。やたらこだわって時間がかかったり、なんであればうまい考えが見つからずに頓挫するというのはよくあります。これが周囲との軋轢を生み、仕事のできない人というレッテルを張られる要因となります。改善したいと思うのは当然の心理かと思われます。

次にナルシストについて。他人と比較して少しでも劣るところがあれば血反吐を出しながらでも修正し、他人よりも優位に立てなければひどく不安になり、必ずどこかしら健康に悪い性格です。こちらもまた、他人からの印象は最悪です。改善したいと思うのはもはや自明です。

やっていることの完成度や、自分の眼に見える中で一番に立とうとするなど、とにかく何かにつけて比較をしたがる性格というのが共通点であると思います。なんなら併発している人もいるでしょう。とにかく今回は、比較という観点で議論を進めていくものとします。

 

さて、比較ばかりすることが問題となるなら、比較しないことを目標にすることになるはずです。比較しない生き方で楽になろう、みたいな。

ナルシストは一番になるための努力(あるいはハッタリ)を惜しまないはずですし、完璧主義は完成形を目指してズカズカ進むわけです。

それで問題が起きないならいいにしろ、問題が起きているわけですから、一番でもなければ、完成度も高くないのではないでしょうか?あるいは時間や健康、金銭などのリソースを使いすぎるということは?基本的に比較をしすぎるという性格に振り回されるとこのへんがジクジク傷んでいるものと思います。

傷んでいるからといって、比較をやめるとどうなるでしょう?自分の持つ何かを破滅に追い込むほど使い込んだ切り札を捨てるということになります。普通します?比較をやめるという決断は、右ストレートが武器のボクサーが、右手を突如切り落とすようなものです。右ストレートを対策されてもいいように左を練習したいのであれば、右手を縛り付けてから練習すればいいのです。要するに、比較をしないということを武器として追加するということと、比較することを投げ捨てるのは別の話だということです。人間どこで才能が開花するかわかりませんので、捨ててみてもどう転がるかはわかりませんが。

 

そもそも、比較すること、痛みを生み出す原因となる完璧主義やナルシストというのはそんなに悪い事なのでしょうか?問題が起きたから問題点ばかりが浮かぶのであって、それまでは甘い蜜を啜れたからやっていたのではないのでしょうか?

たとえば、誰かに追い越されたなら追い越し返そうとするのなど、健全なスポーツマンです。切磋琢磨は小学校でさえ美学と教わるものではないのでしょうか?たとえば、最高の出来になるようにこだわるのなど、稀有な職人気質です。努力は幼稚園でさえ美徳と教わるものではないのでしょうか?

 

……と、褒めてもみましたが、この比較と言うのにも弱点はあります。手に届く範囲、自分の知っている範囲に比較対象が限られるということです。クラスの中で一番とか、自分のセンスで一番とか、そのレベルまでに至るので忙しくてその先に上り詰めるというのがおろそかになったり、反対に目指すものが不可能か、途方もなく時間がかかるほどレベルが高くても迂回できなくなったりという弱点です。

 

さて、一般的な完璧主義、ナルシストへの解決策として言われているのは、『70%を目指す』みたいな文言です。やりすぎが問題になっている人に撤退命令を下したところで、70%というラインを探すのに時間がかかってしまうわけです。完璧主義、ナルシストたちがおなか一杯なのは突撃であり『目指す』なわけで、要求されているのは撤退であり『ある程度の許容』です。彼らがそれを簡単に受け入れられないために苦労しているのであるわけです。

この撤退は、どんな意味が込められたものでしょうか。修正舵を当てるのに労力を抑えることに貢献し、時間や人間関係、体力の消耗を減らすことで次の行動を行いやすくするという戦略的価値です。行動を全体から見たときにより重みある行動としての撤退です。つまり、『後退的前進』です。こういう便利な言葉、概念、考え方を獲得することで、手札を捨てずに、新しい手札で弱点を補うことができるはずです。

時間とか金銭とか人間関係とか、とにかくやりすぎて不利益を生じたものを思い浮かべて、それを評価対象に入れればよいのです。評価対象にさえなれば、自然にその点を反省をするでしょうし、結果的に不利益ではなくなってきます。というより、評価が良くなるという意味合いでは利益になります。これもまた便利なものです。

 

抽象的でふわついているので、具体的にしてみましょうか。

愚痴や不満たらたらの発言があったとします。

「いい?こういうのは普通にやればいいの。こだわらなくていいの」

時間をかけすぎたということと、時間をかけすぎて疲弊し、表現が投げやりかつ表面的になったことが考えられます。つまり、こだわらなくていいというのは客観的な評価と言うよりは、相手の主観的判断であるという処理に切り替える価値があるということです。ここで、客観的な評価を自分で挟み込むことになります。

『こだわるのが武器だからなァ、次からは不満に思われたとこだけ直すか…。なんでこだわるな、なんて言ったんだろう?やっぱり時間のかけすぎかな?』

愚痴をそのままに受け取るというのは抑圧気味に育った完璧主義にありがちです。問題の原因は確かに完璧主義なのですが、それでは浅すぎか深すぎです。完璧主義を抑えつけたとしたら、ストレスになるでしょう。そのままで考えてもよいのか?と勘ぐってみることで、よりマシに仕向けられます。

あまりうまい例ではないですが、この例の通りに、自分の思ったことさえ思い違いとしてしまうことで、状況を別の方向に分岐させられます。思った通りにしたいという偏見、つまり完璧、ナルシストという主義の部分からはまったく逸れていないのに、状況だけを差し替えることができます。

 

こういう武器はいろいろありますが、無数にあるので見つけ次第ストックしていくことをお勧めします。武器探しに傾倒しすぎて、本来の道から大きく逸れることは本末転倒というものです。

末端という概念も取り入れるべきです。味噌汁は要するに味噌さえ入っていれば、ある程度は味噌汁という体裁を保ちます。たとえ豪華にネギにわかめに油揚げに豆腐に入れたとして、たとえ味噌と出汁だけだったとして、味噌汁に変わりはありません。出かける時間が迫っている、おいしいものが食べたい、安あがりがいい、自分が望んでいるものはその時々によって違いますが、それらには優先順位があるはずです。早くできる方がいい、安いほうがいい、ついでにおいしければいいという具合に。

この場合、おいしいという部分を度外視したほうがいいはずですが、うまくできないから困っているのでしたね。では、これから一生に何度味噌汁を作ります?きっと何度かは作るはずです。人によっては無数にです。

では、現在に点数を定めれば、次はこれを越えるように工夫すればいいのではないでしょうか?下手の考え休むに似たりで、そもそもそのタイミングで努力し続ける必要はありません。数こなすほうがよっぽどいいはずです。要するに、ロングスパンに作り続ければいいのです。今日、明日、明後日、ずうっと、『完璧な味噌汁を作ろうとするための生活』をすればいいのです。今欲しいというのを、いつか欲しいに乗せ換えるという、繰り下げです。諦めてはいません。これはあくまで、現在の時間的評価、金銭的評価を引き上げて、あまりロスにならない味の評価を下げておくという戦略的撤退であり、そこで完成しなかった分を未来の自分に担保させるわけです。担保するのに、完璧主義と言う性格の人間はそれこそ完璧な人材でしょう。長い目で見れば完璧な味噌汁ができるわけで、これはその予行演習であると考えてもいい。とにかく、今邪魔ならば、今だけ解決する手札を切ってもいいのです。どうせ後で不満になるのがわかっているのならば、今この瞬間の妥協を、次回の礎にしてやれば無駄がありません。

 

とにかく、70%というものが何かわからないとか、残りの30%が本当に無駄なのかどうかとか、考え込みすぎて時間がかかる場合はこのように解決することができます。比較特有の解決策を探しているときは、緊急事態が発生してからの事だと思われるので、少し立ち止まって迂回路を探すということさえポッカリ抜け落ちてしまうことがあるでしょう。せめてそのポッカリがあるんだよ、ということを知っていればそれだけでいくつかマシになることがあるのではないでしょうか?

 

以上が、ナルシストあるいは完璧主義を矯正せずに、うまいように仕向けて利用することで、自分が得意なテリトリーのまま、問題だけを取り除くことができるのではないか、という提案です。不自然に思えますが、たとえばこれらの感情はすでに傍から見れば不自然であり、不自然という字面通りに解釈すれば人工的であるわけで、それなら自然に振舞うために人工的な一手を増やしたところで同じです。仮面をかぶるようですが、じきに慣れます……やっぱり不自然ですけどね。

わたしは比較的軽度なので、ここに挙げたようなアイディアだけでそれなりに解決しています。このアイディアが、あるいは迂回という概念が存在することが、何かの足しになればよいと思って筆を執りました。まだいくらでも考える余地はあると思います。

 

そんな感じです。