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ことばが十分でないこと

いつか読んだ光がどうたらという詩歌の本に、『幼少期に朝日を絵に描こうと思ったが、あまりに美しすぎて、そして持ってる色じゃ足らない。成長した今でも、朝日を表現しきれるほどの言葉を持ち合わせていない』などつづられていた時には、たいそう感動しました。中学だか高校だかの教科書でもう一度出会ったときにも、それはまた感動したものです。言葉が足りない、筆舌に尽くしがたいとかのワードがちらつくと、はてこれはいつぞやの、と思い出しています。

 

 

朝早く戸外にノートと鉛筆を持ち出して、私は何やら書きつけていた。
が、空があまりに美しいので、その微妙な光線の変化を書き留めておきたくなって、
雲の端の朝焼けの色や、雲を遊ばせている黄金の空に向かって感嘆の叫びをあげつつ、
それにふさわしい言葉を並べようとし始めた。
けれどもなんという絶妙な光の舞踏……。

 

わたしあの朝、初めて言葉という物の貧しさを知ったのである。
絶望というもののあじわいをも知ったのだった。
自然の表現力の見事さに、人のそれは及びようのないことを、魂にしみとおらせた。(朝焼けの中で 光の海のなかを/森崎和江 冬樹社) 

 

これですね。探したらありました。

 

 

昨今、多義語やら汎用性の高い言葉が増えてきています。おもしろい、好き、ウザい、ヤバい。近年開発された『それな』なんて、話を聞いてなくても『それなミサイル』をぶっ放せば勝手に追尾して話題に命中してくれますからね。ちょっと前のチョベリグなんてのも、語源が語源だけに味だろうが服装だろうがとりあえず良いと思ったらそれだけで使えて便利なものでした。

しかし、これはヤバいぞっていうものの評価は、話を繋げてくれる以外に有意義ではありませんね。よっぽどのグルメが、このラーメンヤバいぞとか言えば、まあそりゃ美味しいんでしょうが、もやしにラーメンヤバいぞって言われてもどうもピンとこないというのは、もはやグルメが勧めてくれるのだから旨いに違いないと思っているようなもので、あるいは社交辞令的に仕方なく食べに行くだけで、超ヤバかろうが、サイケデリックヤバかろうが、言葉なんてどうでもいいような。

便利な言葉というのは、『重厚な語彙で武装してやる必要なんかないくらいなにかしら説得力があるのか、それともそこまで重要でないことを伝えようとするときに便利』なようです。現代人は忙しいと言われますし、それに沿った正当な言葉の進化といえます。何に忙しいって、ヒマをつぶそうと思えば買って来れば済む時代ですからね。慣れてくると自分から忙しくなれてしまいますから、そのあたりが原因、ん、別に悪いことでもないか、理由でしょう。

 

 

雨ひとつとっても、『ぱらつく雨』『バケツをひっくりかえしたような雨』『お天気雨』みたいに、『形容詞+雨』というわかりやすくて便利な使い方が多いようです。形容の仕方もずいぶんストレートなもので、包み隠さないアメリカンスタイルでガラス張りな上にテラスまで作ってどこまで開放的やねんってなカフェみたいな、そんな言い回しが好かれるように思います。

とっさに隠喩で『空の涙』とか言われてもわかりづらいと思われるか、最悪スワゆるふわ演じちゃってる妖精モドキエンガチョとか思われちゃうので、そりゃ包み隠さない、隠しても直喩くらいなほうがいいはずですけど、別に現世は戦場の無線ではありませんし、ま、ハムになるくらい*1は豊かにしてもいいんじゃないかなと思います。わたしはハムならプロシュートが好きです。

 

昭和もはじめごろの、それも地方の人だと、雨といえば時雨、霧雨、粉糠雨、日照雨、狐の嫁入り、天涙、夕立、他にもいろいろぞろぞろと使っておったそうです。祖父母はあいにく、雨、雪、台風くらいしか使わないので、わたしがこれを知る機会は本の中にしかありませんでしたが。

別に、便利な言葉、雨なら強かろうが弱かろうが雨だろうというのは、わたし自身使っていて便利だと思いますし、不自由もしていないのですけれど、ときおりのお天気雨なんかの綺麗なことを、『おお、綺麗な雨だ』くらいしか言えないのはなんとも風情に欠けるもので、ずいぶんと無機質に育ってしまったと思ってしまうわけです。

 

今の時代、調べたいナアと思ったことはいくらでも調べられます。ただ、そのアクションはいくらだって起こせるのに、そのアクションのキッカケはずいぶんと減ったように思います。そんなキッカケのひとつたるジイバアで溢れかえっているとか言っている世相の割には、それと実感させないくらい、ずいぶんと疎遠なものです。もともとわたしは内向的なので、世間一般からしたらもっと外部とは疎遠なわけですけれど、そんな静かなところからじっくり他人を眺めてみても、やはり疎遠だなあと思うのです。

昔の人がお年寄りを大事にしたというのは、単に生命として価値が云々というだけでなく、退屈な日々に未知という刺激を、それは自分が生きたことのない人生を、自分の何倍か生きた人たちが話す言葉の中に見つけたからではないか。そこには、知るキッカケも、そして大きなアクションを起こさなくても教えてくれる環境があるはずです。

 

わたしは、取捨選択ができるようになったのが、一概に豊かになったとは思えません。自分といういろめがねだけでは、食卓に並んでいるお皿から肉だけ選っているのと、そんなに代わり映えしませんし、かといって自分からパセリだけ選ったほうがいいというわけでもないんでしょうが。

けれど、いつもは肉しか選らなくたって、たまにはパセリも、いっそ魚料理にしてもらったって、それはそれで面白いんだと、手札に加わっていたほうが豊かだなあと思います。ただ、言葉は、食卓に並んでいるものでいうならばフィンガーボールくらいには、どうすればいいかもわからなければ、知る機会さえ少ないものです。

 

 

昔の人は、朝日の複雑な光線でさえ、筆の一本で完全とはいかなくとも、他人に思い浮かべてもらえるくらいには表現できたんじゃないでしょうか。雨でさえああなんだから、光もいろいろあったでしょうし。

そう考えると、今の時代を生きるだけで得られることばの十分でないこと……

*1:アマチュア無線をする人をHAMという。ちなみに、アマチュア無線から無線の資格取得まで、幅広く愛される名著、「ハムになる本」はあまりにも有名。