自由に選ぶこととものまねの話

大人になるにつれ、制限がなくなっていき、社会人になるころには法律か上司くらいしかルールがなくなっていきます。どこに住んでも、何を食べても、休暇に何をしても、何を買っても、とにかく、この一分、次の一分すべてが自由になっていきます。

そういう自由について、ものまねという切り口から考えてみようかなあと思います。

 

 すべてが自由になること。

そこまであった制限、制約、自分ではしていないことが、自己責任の名のもとに降ってくることは相当な恐ろしさでしょう。何をしてもいいというのは、何もしなくてもいいということであり、自分の発想や自分の視界でしかやることを思いつくことができないということでもあります。制限をどう抜け出そうか、制約の中でどこまで結果を出そうかというのは、あくまでそういうガイドラインやストッパーがあるからこそ成立することであって。

 

そういうとき、知識量とはすなわち自分ひとり以上の発想、視界をどれだけ得られるかということであるのかなと思いました。隣の家の人がチャーシューを煮込んでいたから、今度の休みはそうしてみようかなあとか。これも隣の人やラーメン、または記憶ありきで、触れもしないのに突然ぽっと思いつくものではなく、偶然の産物であり、発想はこの、なにがしかの真似の連続みたものだと思います。

 

自分だけのまっさらな感性という話を以前書いたような気もするのですが、自分だけの価値観で見えるもの、することを規定しまうのはどうなんでしょうね。わたしの友人が『自分だけのまっさらな感性を目指している』と言っていた時にはその発想は考えついたこともなく、人の絵をまったく見ずにただただ書き続けた絵がどうなるんだろうというような好奇心が芽生えてはいましたが、価値というものは比較の連続であり、そしてその比較に使われる良い悪いの判定もまた、比較の連続によって養われ、そして一番はじめの比較というものは、誰かの物まねで、与えられたものであると思います。構造主義的でカタにはまりすぎていますが、数列も漸化式で表現するときには初項がないとはじまりませんで、感性というものもそういうものなんだろうと思っています。

だから、『初項』を他人から得ないというのは、自分以外から得られる情報を自分のものにする、獲得するという人間のアイデンティティみたものをおおきく制限して、かえって広がりを失うような気がしてならないのです。

どうも、制限というのは、潤滑にものを進めたり進めなかったりしますね。

 

自由に選択するといっても、何をどういう風に選択すればいいのかわからない人は一定数いるのではないでしょうか。そういうときに、『初項』というパラメータさえ与えてやれば、今までの『漸化式』を応用して、組み替えて、そこから歩き出せるはずです。そういうときに、外部からの情報というものは価値があって、本や隣人やインターネットなどの媒体は大きな助けとなってくれるような。

 

今回は自由に対して知識量という切り口でしたが、まだいろいろと書けそうなのでまたそのうち何か書きたいと思います。