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欲望と罪悪感と好みと罪悪感と欲望について

Thinking

怠惰な生活を罪悪感にまみれて生活した中で、ふっと罪悪感の正体について気づいたこと、怠惰の正体について気づいたことを書き留めておこうと思います。

この記事は平然と4500字近くあるので、さっさと結論を申し上げますと、今の自分がすべてではなく、あなた個人の中にも大勢のあなたが存在しているということです。

 

では先ほどの意味深な結論がどのような過程で見つかったのかを書き残しておきます。

怠惰な生活を送っています。しこたまアニメを見ながら、ゲームをして、食って、寝て、エアコンの気の利いた冷気に包まれて、しかし設定温度は29℃だからエコには貢献しているのだという謎の正義感で罪悪感も程よく忘れつつ、かといって程よく心の端に残っているそいつが一日にかけて溜まって、首にかけていた真綿だったものがだんだんと縄に変わってしめつけるくらいになるころに、ああやっちまったなとか生意気に吐き散らしながら明日に期待しつつ眠るような、怠惰な生活です。

ただ、怠惰なだけとはいえども、新しいことは見つかるものです。怠惰だとか、罪悪感だとか、ケッタイな、つまらないことをブツクサ言っているのは自分であり、しかしその生活を享受して笑っているのも他ならぬ自分だということです。当然でした。

 

いくらティラミスが好きだからといって、ビュッフェのティラミスをバットごと持って行って席に着くような猛者というのは、まさに『猛者』なのであって、好きとかそういう次元をはるかに超えて、好きでとどまっている人がジョークとしてトレーいっぱいのティラミスを頬張りたいと言っている所を、背徳感も、倫理観も、胃の大きさもお菓子をエンジンにして動くようなチビっこたちの後ろ指と一緒にすべて乗り越えているわけで、だからこそ猛者たらしめるわけです。ではなぜ世間のティラミス愛好家たちが猛者たりえないかというと、もちろん背徳感や倫理観や胃の大きさやお菓子をエンジンにして動くようなチビっこたちの後ろ指も含めて一般的なレベルで備わっていて、その平坦な中で唯一ティラミスという欲望だけが好きという方向に傾いているからです。もし後ろ指さすチビっこがいなくて、胃の大きさも人並み外れていたら、ティラミスをバットごと奪い去ることだってあり得るということでもあります。

 

またしかに、誰からも注意されないのであれば欲望ばかりになってしまう、というのはよくあるのですが、罪悪感をこらえながら怠惰な生活を続けているのに、誰かから注意されないからだと人のせいにする気も、自分が罪悪感を大量にため込めると宣言する気もありません。

それ以上に、罪悪感が渇望であるという可能性について議論しなければならないと思ったのです。

 

罪悪感は渇望である。こうしてアニメを見て笑っているのも自分なら、それをやめてなにかためになる読書でもするべきだと思うのも自分ですから、『したい』『するべき』という意識の差こそありますけれど、前者はもちろん、後者であっても一種の『望んでいること』だということです。

しゃぶしゃぶバイキングは野菜も一緒に出てくるものですが、これを食べなくたって、肉だけ頼みまくったって、その料金だって支払っているわけですから、自由なものであってふんぞり返って肉を食い続けるのも魅力的で、実際いつまでたっても続けられると思います。しかし食事のバランスとか、カロリーを気にするとか、そういう理由で野菜も食べる、野菜だけ食べるという選択肢もあって、結局これも料金は払っているのでその性質は同じものであって、あくまでそのときの判断材料で、己の中の比重の重い方が目立って選ばれやすいという話です。健康診断でもう少し野菜をとるべきとか言われなければ、野菜を食べようなんて思わなかったかもしれませんから、結局『するべき』だってちょこっと理屈っぽい装いをしているだけで、欲望、望み、したいことと似たようなものです。

 

わたしに抜けていたのは、肉肉野菜であり、ティラミス以外にも目を向けることであり、渇望の姿がいろいろであり、一人のキャラクター、人格とは必ずしもひとつとは限らないという認識です。人は怒れば、泣けば、人が変わったようだといわれるくらいですから、したいことのたのみかたが煽情的な人格もいれば、理屈っぽい人格もいて当然で、たまたまそれが欲望とか罪悪感をまとっていただけであって、それは社会を見回しても同じ光景が広がっているにもかかわらず、そのことに毫も触れずに、気づかずに、ここまで生きながらえていたわけです。もし罪悪感を感じず、ドクターに野菜を食べなさいと宣告されていない人だったのなら、肉だけ食べ続けて、それで満足なわけです。しかし罪悪感を感じる人なのであれば、その罪悪感を解放することで満たされる人格が残されているのであって、それを放置したのであれば完全な満足が得られないということなのです。そういうふうに、己の感情をとらえたのです。

だから、やるべきことをしたいことに変えるという画期的な方法なんて、やるべきことだと警鐘を鳴らす自分に対して性格が気持ち悪いから直してもらおうとする術であって、現実世界でも性格を変える方法なんてないというのに、考えたって見つかるわけもないのです。その性格を通して発せられた言葉というのは、必ずしも文字通りの意味とは限らないので、たとえ罪悪感であっても、その性格にとっては欲望のカタチなのです。まずこれを認めなければならないのだと思いました。

 

これを認めてなお、考えなければならないことがあります。

趣味と好みのことです。一般的に見てしなければならないこと、瞑想や読書といったあまりおもしろみのなさそうなこと、ピーマン嫌いな人から見たら他人がピーマンをうまそうに食べているような行為、それを好きだとか趣味だとか言い張る文化のことです。しかし言い張るとか、自分の欲望を強引にねじ伏せてとか、きっとそれが好きだと言っている人たちにはそういうことではなく、実際に好きなのだと思います。わたしはコーヒーはカフェオレかカフェラテで飲む性質なので、周囲の人間がキャラメルマキアートかブラックで注文をしているのをあまり理解できなかったわけですが、彼らの目にはわたしがカフェラテを頼む姿が理解できないものとして映っていたのでしょう。好きだ、というのは、人それぞれであるということです。

それだけではありません。好きだ、というのが食わず嫌いだった場合を除いて、つまりスタバであらかたの味を飲みつくしたけれどカフェラテが良かったという結論に至ったような『好き』だったならば、もうスタバに入ってカフェラテ以外を頼む確率は低いものだと思います。そういう好きは、スタバに入ったときにメニュー表を見なくなり、カフェラテ以外注文しなくなることだとしたら、はたから、第三者から、俯瞰してみれば、制限の行為と大差ありません。それでも制限という言葉をあてがえるのがおかしく思えるのは、ひとえに好きという感情、欲望が根底にあるからです。それしかしなくなるとはいっても、欲望に従ってそうなっているからです。

それしかしなくなる、というのはほかにもあります。カフェラテが尋常じゃなく熱いというのに、つい取っ手ではなくコップの胴のほうを触ってしまった経験があるのなら、次から取っ手の付いた湯気の立つコップは取ってを持つようになると思います。これも制限という動作とたいして変わりませんが、これもまた制限ではなく、取っ手以外はもたないべきだ、という学習の結果なのです。反省が生かされていますから、これもまた制限というには少し違いますね。取っ手をもつべきだと教わっていても予測できなくはないことですが、教わっていないかたまたま忘れていたとしても、痛みを伴って強く記憶に残るでしょう。教えるか教えないか、しろ、と他人に強制されるかされないかは、当人が極度に同調の姿勢でないかぎりは関係なく、自由な状態を自分で制限するようになります。

 

そうやって、それしかしなくなる、という制限をもって人間は物量的にではなく、欲望が満たされて豊かになることもあるのです。だから、今何かをしていれば、それをしたいという欲を満たすことにつながり、今何かをさせられていれば、それをしなくてはいけないという欲を満たすことにつながるわけで、どちらも欠かすことなく取り入れるべきだというわけです。

好きという感情そのものは、継続していけるのかいけないのかの直接の理由たりえないということです。もちろん、継続するのなら好きな方が能率もよければ記憶も強く残るので、そのほうがいいに決まっているのですが、では好きではないからといって継続しないでいることは結局好きという形をとらない欲を満たせず、満足をうまないということです。このことを、怠惰な生活の中から理解したわけです。

 

いったん好きだという感情で走り出したら、頭を一度冷やさなければこのことを思い出せないかもしれません。時計をジっと見つめて次になにをやるべきか考えていると理性的な行動がとれるというのがわたしの変なところなのですが、まさにするべきということの欲望にこたえて動き出していたようです。しかしするべきこともしたいことも両方というのはなかなか難しいので、するべきだ、したいんだ、と、いえもっと明確に、『好きだ』『仕事だ』と呼ぶことで明確にしなければならないのです。そのうちに、するべきことに好きだという感情が芽生えないまま、しかし何時間続けても苦にならないようになるかもしれませんが、これはするべきことを満たしてほしいと思っていた人格の静かな快感が、自分の体に染みついたんだと思われます。それは、明確な好きという感情を伴ってもいないのに、能率を上げていくのだと思われます。

 

好きこそものの上手なれとはよく言ったものですが、好きではないからといってその欲望をもった人格の人権を奪う言葉ではないのです。あれは文字通りであり、あわよくば好きになっちまった方が得意になりやすいよね、程度の話であって、鬼気迫って好きになろうと迫らなくてもいいのだ、と学んだのです。

わたしは少し前から、新しい習慣を前にして早く好きにならなければと焦っていたのですが、そんなことそもそも望むべきではなくて、はじめから自分自身の多様性を認めていればよかっただけの話だったのです。これは大きな発見だとわたしは思っていますが、この発見をして書き留めている今、わたしは欲望にまみれていて、罪悪感におしつぶされそうで、発見を活かせそうにはありません。ものを書くのは欲望だったようです。

 

まあ、明日からがんばるとしても、がんばる方向性の間違いはなくなりそうなので、安心して明日も一日がんばるぞい。そしてここまで読んだ人、読みにくくて長い文章を心掛けたというのに4000文字もお付き合いいただきありがとうございました。わたしの平凡な発見が、どうかあなたにとって良い再確認、善い新しい視点、好いものとなりますよう願います。