そのとき人を好きになること

人を好きになるということ、まあ恋愛的にせ、友情的にせ、それがどうすればいい関係を築けるのか、について考えてみることにします。

 

 昨日の記事の続きなので、昨日の概要だけ説明します。

『欲を満たしているはずなのに罪悪感なんかで結局ザンネンになってしまうのは、欲を満たしたい人格と、するべきことをする人格とがあって、後者の方をないがしろにしてしまったからで、人にはいっぱい人格があるんだと考えれば、うまく付き合えるのではないか』というようなことを考えていました。

詳しいことは書いてあるのでそちらで。

さて、自分の中だけでも複数の人格があると考えられるなら、対人関係なんかまさに複数の人格が付き合っていくわけですから、対人関係と自分の中のせめぎあいを並べて考えたら何か成果物がありそうですね。

複数の人格がいるのだと認識したうえで、どれもを満足させることが、本当の満足なのではないか…、ということまで思いついたわけですが、対人関係でも言えそうです。自分も、誰かも満足するということは、たとえばその誰かにプレゼントをしただけではいけません。自分の財布事情や、相手に受け取ってほしい想いやら、しかし迷惑をかけたくないやら、相手が気に入ってくれるとか以上に、自分が渡すという行動が自分のためにならないと、かえって自分が損をした気分になるかもしれないわけですから、相手を精一杯喜ばせて、どうするか考えて、自分も相手もいい結果に転ぶのならいいはずです。

 

会話の中でいちいちウソや言葉の文法に切り込んでくる人がいますが、切り込むことで不快になるかもしれないと考えて寛容になっておくか、切り込まれる側の人がその切り込むというアイデンティティについて寛容でなければなりません。

その人によって好きの表現の仕方は振れ幅があって、それがつんとした感じになってしまうとか、頬を染めてしまうとか、大声で笑いながら肩を抱き合うとか、いろいろあると思いますが、いちいち好きだという表現の方法にこだわって修正させるのはナンセンスといえましょう。ただ、気持ち悪いから正してほしいし、受け入れがたいというものだって多くあるでしょうから、なんだったら口論という形をとったとして、双方が双方にとって悪い結果にさえ転ばなければ、愛情表現というところでとどまっているわけです。これがアイデンティティに対する寛容さです。

相容れない、とはいっても、相手だってそれなり長いことその人をやってきているわけですから、なにも無策でそうしていることはないでしょう。もしそう見えていたとしても、もしかすると自分と相手が考えているもたらされるべき結果が違うのかもしれませんし、無策というのが策、というのも十分にあり得ます。このとき、もしかしたらよく考えて実行しているのかもしれないから、触らないでおこうというのではいけないなあと思うわけです。相容れないのは相容れないなりに、やはり自分にとって理由のあるもので、相手が何を思ってそうしているのか手に取るようにわかるのならはじめから不快感や嫌悪感を覚えることはないのです。相手の行動の理由を聞かないで、『なにか策があるんだろうからさわらないでおこう』というのは、まあ波風は立たなそうですが、相手がもし無策にもヒビの入った石橋をずんずんわたるのを止められるかもしれないというのを制限しかねないので、それにその理由をしらない以上納得していないのですから自分によくありません。相手のアイデンティティを理解するために、なにより相手に対する理解の浅さを改善するためにも、ときに相手にとって不可侵かもしれない領域に足を延ばさなければならないときだってあると思うのです。

まあ、ズカズカ土足で他人の心中へあがるわけにもいかないので、それなりに手土産なり、ノックするなりしなければいけませんが、もしかすると土足こそが相手にも自分にも最良の結果かもしれませんし、このあたり、自分と相手の人格にどれだけの違いがあって、付き合い方はひとつに限らないということなのでしょう。しんみり話すのが好きな人もいれば、セックスがコミュニケーションだという人もいるわけで、どの形をとっていても、心を通わせている、という根底の部分は一緒です。

 

まず認めるべきは、そこでするべき会話の…酒を酌み交わしながら、殴り合いながら、テレビをみながら、トイレで隣にいるときなどの…多様性です。次に認めるべきは、人そのものの、こういうやつもいるんだなという、多様性です。

たとえ悪口を言い合いながらでも、本人たちは何か通じ合っているのかもしれない、それは外部から見て判断しかねるかもしれないけれど、ふっと立ち止まって、自分のものさしでそれを判断していいものか、しっかりと吟味する時間は必要だと思います。洋風が好きだけどたまには和食もいいかもしれないなんて思えれば、食べることはきっともっと楽しくなるでしょうが、対人関係だって、価値観が合わないことも含めて…あれは相手の不可侵の領域に踏み込みすぎたとか、認識のずれで溝がうまれてしまったとかそういう言葉ではありますがここでは字面通りとらえるものとします…、たまには醤油と味噌みたいな組み合わせを試すようなものだと思ったっていいんじゃないかなあということを、今日、ふっと思いつきました。

だからどうしろっていうんじゃなく、そう思ったんだけどなあふーんくらいで捉えてもらうくらいの問題なんですが、まあそんなことを考えていました。