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日本のレビューコミュニティと、批判の扱い方

日本でよくあるレビューの形に、『うごかなくなりました』『不便です』とかがあるんですけど、どうすればベターかなっていうのと、あれをどう受け取ったらいいものかな、という話です。

 いやまあ、不満はぶつけてしかりとは思いますが…。外国でも『What on earth!』とか『Fxxk!』とか叫んでますし、ため込むってすべきではないんでしょう。まそれは、個人の精神衛生上の問題。

ひとつの製品に不具合が起こるのはよくあります*1し、アウトソーシングとか委託とか多いとなおさら不備もあったりするわけで、きっとそのレビューと同じ内容で怒っている人もたくさんいて、そのうちの幾人かはやはり同じようにレビューを書き込んでいるはずです。ただ、企業側は大量のレビューをさばくのに、『うごかないっす!』ってだけだと、原因究明やら再現性があるかの確認やら、まとにかく手間なわけで、その手間の間にきっと他の意味がわかりやすいレビューを大量にさばけるわけです。なぜそうまでして効率を取らなければならないのかといえば、毎日ひっきりなしにやってくるからで、すべてに対処するには莫大な費用なり労力がかかります。それで会社やら新製品が倒れたらどうしようもないので、ギリギリ最大効率の改善と、操業のバランスを採る、というところでしょう。

あと、たまにいますけど、『うごかない製品を平然と売っている御社はなんなんですか』みたいな怒りの方向が権利の侵害みたいな。まあCSRというか社訓というか、そういうところ抜けてんじゃねーのというのはわかりますけれど、99.999%動くならば売る、それ以上の精度は技術的革新を待たなければならない、みたいな状況に置かれているとき、レビュー内容としては『もっと頑張れよお前』と言っているのかもしれませんが、のっぴきならない理由があって現在の精度に決まっているわけですから、これもまた生産的ではない。というかこの手の怒りはいずれ権利侵害関連に抵触しかねんのでなんともいえません。

レビューする側の国民性として、『不快』が判断基準にあるとは思いますが、それだけだと改善にはつながりづらい。『○○が、△△という使い方で使っているうちに壊れました。』とかしておかないと、レビューとして拾ってもらいづらいところがあります。というか、企業側だけでなく、他の利用者の参考になりません。『こんな製品なら使いたくない』のは個人の問題であって、そのレビューが原因で誰かの『使いたい』という好奇心を妨げるのはよろしくない。

まあマジになったってしょうがないんですけど。会話のドッジボールはネットの嗜みみたいな部分はあるんで、おふざけならばツッコむのは無粋ですしね。ただ、おふざけとわからない人たちも幾人かいるわけなので、そこらへんの配慮は欠かさず、あるいは誰かしらリカバリーしておきたいところですね。これもその一端ということで…。

 

それから、レビューとかコメントにある批判の受け取り方ですね。

『おい動画主滑舌悪いし投稿間隔遅いしほんと視聴者のおかげで成り立ってるんだからこんな状態で動画出すんなら消えてくれよ』

みたいなコメントがあったとします。句読点が消えてることからそこはかとなく推測できますが、キレてるように思います。

ただ、ポイントとして『滑舌が悪い』『投稿間隔遅い』『視聴者としては不快だった』という三点が言いたかったようです。敵意を消すようにかみ砕くと、『意見』として吸収しやすい形になります。

さて、ここで問題なのは、『受け取り手の姿勢がどうであるか』です。意見を聞いて改善する性質なら、今のようにかみ砕いて受け取るべきですが、意見を取り入れないで自分の高みを目指す人たちは、受け取らないくらいが幸せです。『まあいいじゃんいいじゃん』くらいで笑ってすますか、マジにならずに馴れ合うのがいいでしょう。特にこのへんの裁量を間違えると、姿勢を大きく崩して後々大変なことに…。

 

ただ、受け取り手のことを考えると、レビュワーは『意見のままで止めておく』のがベターですね。『壊れるんだけど、もう作るのやめろよ』は、前半は意見ですけど、後半は受け取り手の行動を制限することばです。それで本当にやめるメンタルの弱さは、たしかにリテラシーの欠如を疑った方がいいんでしょうが、結果的にその人が生むかもしれない成果の芽を摘み取ることでもあるので、やるべきではありませんね。その人が嫌いなだけなら、その人生を壊すのが目的なら、また別なんでしょうけど。

 

願わくは、怒ってても、人権、意見、感情、成長、いろんなことを考えて行動できるようになりたいですね。自分を扱き下ろすならさておきとして、誰かとなると、精神や技術がどのような方向でどのように成長しているかなんてさっぱりわからない、つまり自分がする批判に耐えられるかわからないのに非難するのは、言ってみれば責任が伴います…いえ、責任以前に、期待していない悪影響を与えるということは発言側も望んでいないでしょう…から、『責任』は考慮にいれなければなりませんね。

こうやって考えると、対人関係おーこわ、とか思ってしまいますが、なんだかんだ会話することで得られるメリットがそれで褪せることもないでしょう。そう、一応、会話は健康には良いそうですよ?精神状態にもよりますが。

 

批判しないべきかどうかは個人の裁量ですが、私としては先に上げた通りに好んでするべきではないと思います。理由も以上の通りです。意見として認めがたいというのであれば、先述のことは忘れてください。

ただ、事実として、会話一つ一つにも責任が発生するというものがあります。言葉にして放った時点で、法的に訴えられる可能性も、逆めーちゃめちゃ褒められることもあります。そのへんを考えると、不満点があったら、意見として汲み取られやすい形でコメントやらレビューを行うというのが、気の知れていない相手に対してできる生産性のある提案の仕方でしょうかね?あんまり言いすぎると言葉狩りになってしまうので、このへんにしておきます。

 

今のところ、こんな風に思っていますけれど、どうなんでしょう?

まあ誰かの脳みその中をのぞきたい人がいるんかなあとも思うので、おいておきます。

*1:といっても有効数字5ケタとかのバケモノ的精度で製品は作られてるのが大概