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『普通』の押し付けも良し悪し

常識とか普通から外れている人に、レールに戻れと押し付けてみるのは、いいこともあって、悪いこともありますが、そのような話をつらつらと。

 

 

 よく考えてみたら、常識とか普通とか世間というのはなんでしょう?

太宰は、『世間というのは、君じゃないか』と。ニーチェは、『善くて義しい者』と。最近では芥川賞の「コンビニ人間」でも触れられています。

普通というのは、人により残酷であったり、快楽であったり、安堵だったりするようです。個人的には、宗教じみたものだと思っています。『牛を食べるな、牛は神の乗り物である』と厳命するヒンドゥー教は、インド周辺の宗教です。牛の肉が旨いからと言ってどんどん食べていくと、牛乳が取れなくなってしまうから困るので、いっそ神格化して牛は食べるなと命じる。旨い事さえ知らされなければこっそり食べようという人は減るでしょうし、食べるのは異端か非常識なヤローといった構図になってさらに一般人の手の届かない位置づけになり、より神のような扱いになるわけだ、という民衆が生きるために常識としたかったのではないか、と考える説があります。『豚を食べるな』と言う宗教も、生の豚は中り易いから、が理由だと考えられています。このへんは神学の方々にはおかしく聞こえましょうが、社会学のレンズを通すとそのように映ったという話です。

結婚とか恋人とか大学とか、数々の普通はあるわけですが、普通がなぜ普通なのかを考えることはありません。なぜ、よりも、どうやって、の切り口ばかりが問われます。『理屈とかじゃなく、神様はいるからいるんだ』と考える人もいますが、そういう意味で数多の普通は神格化されていて、疑いようのないものなのかもしれません。

 

私は携帯を持っていませんし、これから先持とうというつもりもありません。あまり使わないものを、鞄のこやしにしてしまうのは勿体ないですし、ハードに使うようになってしまっても、他のことがおろそかになりそうで…もともと人と目を合わせるのが苦手というのもありますが…。ただでさえパソコンやゲームをしていても、何者か『自分は今何も学んでいない』と背筋をなぞってくるので、きっと誰かから連絡が来たから返さなければならないという大義名分など背負っては、なおさら堕落しかねない。誰かがかかわると途端に自分が見えなくなってしまう視野の狭さは恥ずべきことと承知していますし、わざわざ関わりを絶つようにするというのもまた、一般的な行動ではないことともわかっています。

しかし一般的でないということの何がいけないのか。オンラインゲームでも、大勢が参加していサーバーで遊べばいろんな人と交流でき、人から学ぶこともでき、たとえ失敗しても誰かが助けてくれたりするわけですが、しかしただ黙々とソロプレイに走っている人だっているわけです。そういう道から外れた人というのは、他人から見るととっつきづらくて、偏屈に見えますが、話しかけるのが難しそうだと考えるだけならまだしも、それを理由にしてお前は偏屈だぞと面と向かって言うのはなんでしょう?

そう、普通から外れると、普通はそういう人々をのけ者にする。普通でないという状態だけで、多くのレッテルがまとわりついてきます。障碍者を一瞥、『可哀そう』というようなものです。本人が本当に悲しんでいるならともかく、十把一絡げに可哀そうな連中みたいに言っているようにも。まあ、障碍なんてのは普通知らないもので、知識としては24時間テレビかドキュメンタリーくらいだとすれば、それが条件反射で出ているだけで罪の意識はないでしょうが、ここが活発な障碍者との軋轢を生む原因となっています。はたまた、鬱の人に、たかが気分が滅入ったくらいでなんだ、というのとも、同じです。彼らにしてみれば自殺衝動なり、まともに生活するのも苦労する…かなりザックリ言うとジャミングを受けているがミサイルしか積んでいない戦闘機みたいなものです。 

しかし、普通から外れている人、というのは扱いづらいもので、できればかかわり合いたくないというのも事実でしょう。どうしてそうもよそよそしい、という質問に対しても、普通じゃないから、という説明で十分事足りると思います。

また、普通から外れる、というのはそれなりのリスクも伴うために、軌道を戻してあげようとする人情もあるかもしれません。

ただ、それは彼らが普通から外れることのリスクが分かっていなかったり、彼らによってなにか不快な行為が行われたりするからできるものであって、そうでなくただ普通でないことに嫌悪するというのは、自分が普通を頭から信仰してしまっているかして、健全なプリンシプルとは言えません。信仰とか普通自体は、自分の身を守るため、他人との関係を円滑にするためなど、十分に習得する価値があることです。問題は、その信仰をまったく疑わず、その宗派以外を異端とみなしているということにあります。個人の行動原理を、他人に提案するでもなく、押し付ける行為です。あくまでディベートの試合の中で行われるべきことです。普通というのは、あくまで大勢が普段触れている物事に過ぎないのです。そこにたまたま、別の普通を持った、別の宗教があっただけなのです。しかし、これらはきっと大勢の、暗黙の了解でしょう。

 

普通に追いつこうとする中で疲弊して、普通でないまま、ということがあります。こういうのは、『普通じゃないからいーんだよ!』と気丈にふるまってみるものの、その姿勢を貫くだけの技術、経験、信念がないことが多いです。また、普通を神格化して、届かぬものだと考えてしまっていることが多いため、普通が本当はどういう形なのか、知らないこともまた多いです。多い、というのは、私の人生では非常に多かった。

考えは多義的であるとするのが、私個人の考えなのですが、その私自身が、自分の普通という一義的な観念で過ごしやすいのです。友達は結局限られていて、ハマる人にはカッチリハマっていたけれども、やはり人数としては異端で、趣味と言っていいのか知りませんがそれなりにサブカルが好きで、これもまた異端です。携帯も持っていなければ、恋愛も好まなくなりましたし、家にいることを好み、まだ二十歳にもならないのに肉は好まず、食も細く、ついでに体も極端に細いので、異端のカタマリみたいな人間です。しかしそういう、外れている環境にいるとわかっていたために、一度常識らしく振舞ってみたりしたのですが、結局こうして戻ってきたわけで。まるでファイト・クラブのタイラー・ダーテンたちが取り戻したマッチョイズムみたもの、自分の外にあることを求めようとする姿勢を抱えながら。しかし、いろんな考えを吸収するのはいいことだと気づいてはいても、網羅はできていませんで、いまだ普通に対する理解も薄いのですがね。

普通を学び取るというのは、めぐり合わせです。私の親は二人とも高卒で、いわゆる普通から外れた人で、兄も、姉も、同様でした。ここ最近では珍しい、昭和初期みたいなボコボコ殴って教える親で、姉は私以上にタコ殴りにあって病院でドングリ*1にされ、年を経て親が丸くなったあと育てられた私は今度は自由すぎるほど自由にされました。普通を学ぶ機会は家にはなく、ましてよそ様から学べるはずもありません。普通じゃないヤツを正そう、というのは、少し前に書いたように人権侵害じみていて、やるべきでないという世相だったのです。みんながひとつに、ひとつじゃないやつは別グループだからムシ!みたいな。

だから、普通がどんな実態であるのか、いまだに知りえないのです。普通というもの、それがなぜ普通になったのか。世間のような、『専門分野』にいる方々なら当然わかりましょうが、私にはまだ見えてこない。

専門分野は深く掘り下げ、しかし他の分野も広く浅く得ておく、というT字型の知識の伸ばし方、という考えがあります。どうせ別の道を、たとえば友達が少なかったり、携帯を持たなかったり、アカデミックやサブカルに興味を持ったり、そういう道を歩むにしても、比べるものがなければ、己の立ち位置も、その行動の良さや悪さも、掴めないのです。そういう、教養として、常識としてのバイブルを買おうとしたら、ニーチェにハマってしまって偏屈ロード驀進中です。毒殺されないために少しの毒を食らうという話もありますが、少しどころか彼の童貞ズムバッリバリです。別に童貞でもいいとは思うけれども、これはあくまで私の価値観。自分の目では選ぶとこうなっちゃうので、それっぽい本とかないかしら。かつて池波正太郎が著した『男の作法』のような。

 

ちなみに、文中にも出てきた映画『ファイト・クラブ』、フヌケになったニューヨーカーがただ殴り合うだけのクラブ、ファイト・クラブに入ってマッチョイズムを取り戻すみたいな話で、めちゃくちゃ面白いのでレンタル屋とかで見かけた折にはぜひ。吹き替え版がおすすめです。

*1:頭にかぶるミカンの袋かメロンの梱包材みたいなやつ。被るとすっごいドングリ型だった