受け取り与え、みずからひとから

殉教者ローゲリウスは言った
「善悪と賢愚は、何の関係もありません
だから我々だけは、ただ善くあるべきなのです」

As the great Logarius once said, Acts of goodness are not always wise,
and acts of evil are not always foolish, but regardless,we shall always strive to be good.

"処刑隊の手甲"より、Bloodborne

 

今回もべらぼうに長いので、最初に言いたいことを言っておきますと、与えられていても受動的とは限らないということです。

 

 

テレビを見る、新聞を読む、ニュースを見る、というときには批判的、クリティカルに捉えよという言葉があります。バイアスにかからぬよう、多くの考えを取り入れ、中立的に理解しようという意味合いです。批判的というよりは、懐疑的のほうが耳慣れているかもしれません。『本当にそうなのか?』という問いかけから思考が始まるので、そのことについて自分であれこれと調べることになります。そうしていると、その知識のシルエットが浮かび上がってきて、そして輪郭がはっきりしてき、きっと専門家が見えている本当の細部、質感であるとか、物質の構造とかはわからないけれども、それは研究の観点で必要な情報であって、わたしたちが日常で知って使うに十分な量の情報がつかめてきます。

 

知識が深まるだけで楽しいという人がいるのは、貯金をしてたまっていくさまが面白いというのに似ていますが、見てくれが面白いというのだけではなく、実際にその巨額で色んなことができるのがよいのでしょう。目的なく貯金をしただけでは、それでも硬貨をたくさん貯めた漬物石くらいの活躍を見せてくれるでしょうが、目的さえあれば、手の届かなかった高級バッグや、最新ゲーム機なんかを手に入れられるわけで、少なくとも『使う』ということが視野に入ってくると、ずいぶんと地平が広がります。その地平の広がりたるや、通販のカタログすべてを見回してどれでも選べる楽しさと言えば十分に伝わると思いますが、知識というのも似たようなものです。知識をたまっていくさまが面白い人もいますが、知識が自分のできることをぐっと広げるのが面白いという人もいて、しかしどちらも、知識とは面白いものだと言うものですから、はたから見ると不毛な、『貯めるだけの行為』が好きな変な人、という風に見えるわけです。ここでは広がることが楽しいんだ、というのが伝わればいいので偏向報道気味ですが、たまっていくさまが面白いというのもまた、『なんかわからんけど、なんか好きなんだよね~』の世界であって、理解はしてもらえないかもしれないが、確実に面白い、例えるならアリの巣観察キットくらいの面白さがあるということも書いておきます。

そういう、面白いに感化された人は特に、学べば面白さが広がるし、実際学ぶ過程さえも楽しくできる方法を知っている場合もあり、自分から情報を得ようとする姿勢がある場合が多く、このことを能動的に学ぶ、とか言います。

 

受動的は能動的の対義語で、なんとなく町を歩いてくると情報が耳に入ってきたぞー、くらいの姿勢ですが、これはよくない、という風に言われています。それは、自分から学ぼうという姿勢があれば、記憶に残りやすいなどのメリットが多いからです。しかし、メリットだけで動く人はそう多くありません。学びを通すメリットというのは、それによく触れている人しかわからない部分が多いためです。戦術が大事なサッカーをしているプレイヤーに、孫氏の兵法や将棋は戦術が学べるぞというメリットを伝えるならまだ伝わるかもしれませんが、マトリョーシカが趣味の人にこんこんと伝えたところで、なにせ戦っていないのですから、ピンとこないようなことです。自分のことではない感じがすると、身が入らないといったところでしょうか。能動的にするべき、という啓蒙はあまり効果的ではなく、あくまで本人の好奇心次第であって、そういうものはそれたりえる場面で啓蒙するからこそ効果的なのです。

科学的メリオリズム*1に忠実と言われる研究者の中にも、中谷宇吉郎やこの語の提唱者であるP.B.メダウォー卿など、研究が楽しく、それとは別に建前を用意することで、資金を得て、研究を続けている場合があります。投資および機関によっては税金で研究している面があるので、『なにわろてんねん』という突っ込みを受けていることがありますが、本音のほうを強調しすぎたことで遊んでいる風に聞こえてしまったのが原因です。しかし、実際そう強調したくなるくらい研究というのは楽しいものです。自分からまだ見ぬ知識を手繰りに行くのは楽しいものです。そして先述の通り、この能動的な姿勢は生き甲斐というだけでないメリットがあります。この姿勢によって得やすい、楽しさというのは、生産性を上げつつ、それだけでも良いものです。

 

さて、アニメ番組を見ている人にスポットを当てていきます。テレビ番組というのは、自分で作るという立場にある人よりも、見る側の人間のほうが多いでしょう。作る側の人間から、見る側の人間は与えられている、受動の関係にあります。流れてくる情報だけで満足するために、受動的であるとか、リテラシーが欠けているとか言われます。メディアリテラシー関連の話題でテレビが目の敵にされるのはここです。

しかし、深夜に帰ってきてテレビをつけたらたまたまテレビをやっていた、ならともかくとして、アニメは季節ごと入れ替わりますから、『2017年 冬アニメ』とかで検索をかけて、アニメの公式サイトを巡り、キャラクターの好みや、ストーリーを吟味して、見るアニメを決めて、他の番組の延長を加味して5分くらい多めに録画をしてやって*2、さらにアニメが始まってからも、一話目が微妙ならば、二話目以降に隠し玉を用意しているか、あるいは自分には合わないのか、よく吟味していくなどしている人もいるのではないでしょうか。『ただ流れているのを眺めている』、という受動的な姿勢とはかけ離れているように思います。能動的に、受動的な性質のものを、得に行っているのであって、好きなミュージシャンのライブに行く、くらいの性質があるわけです。こういう点において、人から与えられるからといって、受動的であるかまではわかりません。

同じことが、反対の場合にも言えます。先生に作文をしなさいと言われた小学生は、作文をするという『生産』、『与える』行為をしているにもかかわらず、そのきっかけは非常に受動的です。人に与えるからと言って、能動的とは限りません。

その当人の姿勢が、能動的か、受動的かどうかというのは、行動の性質としての能動・受動、つまり、与えるのか与えられるのかというところとは関係がないのです。プログラマ的に言えば、この能動・受動というのはインターフェースに似ています。外側の呼び名だけが同じで、内部で実装されている機能が違うために、あるクラスでの実装を知っていたところで、他のクラスでの実装を完全には予測できません。あくまで、似ている言葉であって、同じものではないので、『能動的に受動的行動をとる』といったようにくっつけても違和感なく、しかも意味も通ります。

 

さて、ここで冒頭に振り返ります。

「善悪と賢愚は、何の関係もありません
だから我々だけは、ただ善くあるべきなのです」

ちょうど似たような構造をとった言葉だったので、一緒に扱っておきます。

これもまた、対照的な漢字による熟語で構成されていて、そういう似た性質の言葉の相関についての話題なのですね。今回の話はこの言葉が発端となって、この言葉の構造を借りる形で、紐解いています。似ている問題の構造を利用する、というのはポリアの受け売りですが、力強い切り拓き方です。

 

さて、言葉について、善悪と賢愚についても、ゲーム中の意味を抜きにして、同じような構造をもった言葉です。良い賢者、良い愚者、悪い賢者、悪い愚者、どれでも違和感なく通用します。

賢くなくたって、バカだってなんだっていいから、禁忌にだけは手を出してはならない…という意味合いの言葉ですが、こういった配置の言葉にすると、不思議な芸術性というか、面白さがありますね。

もちろん、国語的に言葉をひっかきまわしたところで、事象を証明したことにはなりません。この言葉はゲームの中の、言ってみれば演者なので、ゲームの中にあって初めて発話者の意図した意味のあるものとなります。実際にブラッドボーンに触れなおしてみるのもよいかもしれません。

 

もちろんブラボ考察ものの定例通り、ここで語られることは正しい論理であるとは限りません。曲解してもなお、より正しくあろうとする行為、語明かす行為が面白いのであって、そこにそれ以上の価値、信仰など、を見出すべきではありません。

……これはここまでの文字数を割くべきだったのかな。とりあえずこのへんにしておきましょう。

そんな感じ。

*1:社会をよりよくしようとする姿勢

*2:武蔵丸の悲劇』関係者に多い習性