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この道、どうかローマに続け

スランプや停滞期、マンネリ、三日坊主といったようなものがあります。それについて、あれこれ思索の狩りに出かけてみます。

今のところ、獲物の気配を感じるくらいまでは考えてはいるのですが、はたしてこの思索が獲物を捕らえるに足るでしょうか?

 

今回も長い旅路、かれこれ5000字くらいですので簡潔にまとめますと、『停滞したら信じるしかない』という話になります。

 

スランプというものは訪れます。飽きに近い形や、どうしても不調であるとか、いろいろな姿をしていますが、飽きと違うのは、確かにそれを目指していて、実際にうまく進んでいたけれど、なんだかうまく進まないというところで、非常に小さな一歩だろうと、いっそ後退していようと、目だけはまっすぐ目標の方向を向こうとしているということです。不調を引きずるとだんだん目標の方向から目をそらしがちになりますが、飽きているというやつはもっと、興味がスッカリ消え失せるはずなのです。

うまく上達しないことはプラトーといって、スランプと区別されますが、ここではそれらと三日坊主まですべて含めて扱うことにします。

 

楽しむ、ということの学習効果については論じるべくもありません。脳科学的にも、楽しむと記憶能力があがるといったような研究がありますが、確かめるまでもなく、楽しかったことをよく覚えていて、そうでないことは忘れようとしているか、すでにすっかり忘れているかもしれません。楽しむ、というよりも、積極的とか、興味を持つ、と言う方が的確です。そういう気分を呼び起こさせる手っ取り早いものが楽しいという感情であります。楽しいからなんとなく続けてるんだ、というのはどのように聞こえるでしょう?

これに対して、スランプが楽しいという類の人間に出会ったことがありません。どうにもこのあたりに関連がありそうなので、わたしはスランプについて手がかりとして、楽しいかどうかを選ぶようにしています。もともと、わたし自身が『勝ち上がりたい』という欲が先行しやすい性質というのもありますが、『なにか新しい事を知ろう』というのと『誰かより強くなろう』というのは、難易度に大きな差があります。誰かを基準にすることは大いに強いのですが、それなりに忍耐力が必要です。しかし、ぐいとひっぱりあげられるのはあくまで誰かがいるという条件のもと成り立っているので、のぼりつめることができます。少なくとも、『好奇心』と『超越』では、人間が思索できるすべての知識と言う知識と、思索している人間と、超えるべき対象が異なり、そうなると同じカテゴリで頑張っている人間のほうが、知識より少ないわけで、上には上がいるといっても、天井はずいぶん近いものです。

それだけでなく、一段レベルアップするという点においても、階段を一段上るか、ロッククライミングのときもスロープのときもあるなかなかアップダウンの激しい道か、でいうと、今までするする進んでいたのになあ…と思う回数は多いように思います。その険しい道を含めても、ただただ階段を登るよりも、景色も路面もずいぶん変化して、達成感は得も言われぬものです。人と比べて勝つ、というのも、疲れるけれどもそれだけの価値があります。一段ずつ小さい知識をコツコツ積み上げていくというのは、確かに手っ取り早いけれども、その物事について好奇心がなくなってしまったあと、比較対象がいないというのは、なんともマイペースになりがちです。けれども、そのマイペースだからこそ、積み上げさえすればずいぶん高いところまで届くわけです。

コピー用紙を89回、とんでもない力で折り上げてアンドロメダ星雲まですっとんでいくか、探査船を飛ばして、ロケットの設計図を描いて、綿密に計画を組んで、何度もテストをして、それからゆっくりロケットに乗って500億年過ごすかの差です。どちらにせよ、アンドロメダを目指すということは同じですが、まあ、コピー用紙の方が大きな苦難に見舞われるでしょう。わたしの住んでいる文化圏だと、ロケット派のほうが堅実でよろしいという話を良く聞きますが、熱意のあるコピー用紙派のほうも決して悪くはないとわたしは思います。

両者の違いとして、楽しいと思うタイミングが異なります。コツコツと積みあがっていく様が面白い、小さいけれどもずーっと面白いというのがコツコツとしたほう、グワーっと一気に積みあがって、人を追い越すときの爽快感がたまらないというのが、人と比べる方です。レースゲームが好きな人もいて、どうぶつの森で牧歌的生活をするのが好きな人もいます。他の努力の仕方もあるでしょうから、まあそれぞれ、といったところでしょう。

言えるのは、レースゲームの人たちは、壁がとてつもなく大きいことがあることです。マリオカートでも、あらゆる道は研究しつくされ、世界記録となるとコンマ一秒の壁です。もしかすると、それを越えることができないかもしれないし、もっといい走りができるかもしれない。しかしその暗い中を、ずいぶん長く苦労するハメになる機会に恵まれやすい環境である。彼らはずいぶん心構えをするか、楽観的になるなどなんとかその壁と格闘し続ける何かが必要です。

 

実際、悩んでいるだけでは机上の空論を抜け出しません。どんどん試してみないことには、その悩みの解決策が有効かどうかわかりませんし、正しい鍵穴が見つかるまで手あたり次第可及的速やかに試していくべきなのです。そして、そのうちから、鍵だと思っていたものがただのつまようじだったという、努力を無に帰す恐ろしい結論が待っていてさえ、答えを得るまでそれを続けるべきなのです。答えを得てさえしまえば、スランプのことなんてきっと忘れてしまいますし。そう、辿り着きさえすればスランプは勝手に消えるので、だからこそ、負の感情が沸き起こりそうなのに気づいたらえいえいと声を張り上げてかき消して、獅子奮迅、突き進んでいくというやりかたもあるのです。

自分で言っていても正論だと思うのですが、スランプの人にこれを押し付けるというのは酷なものです。なにせその、試す活力の方までじわじわと無くなっていくんですから。そもそも、今まで努力して登ってきただけに、中腹まで来て下山するというのは悔しく、恐ろしいのです。そして、大事にしただけに、できれば山のてっぺんまで登ってみたいのです。

科学者は、自分の仮説が本当に正しいのかどうかわからずに、自分の勘を信じて研究を続ける、ということがあります。そして、間違いだとわかってすぐ、自分の愛した仮説を捨てるということは勇気が必要だと言います。そして、間違いだとわかった理由の方が間違いである可能性も少なからずあり、またこれが、仮説をもう少し信じてみようと思わせてみるわけで、葛藤を生むのです。彼らのように、自分のやってきたことを信用し、後ろから迫る昏い感情に威嚇するだけの元気がなくなったのならば、すっかり薄闇になってしまった中でも、きっと大丈夫だと信用するしかないのです。

 

すべての道はローマに通ず、という言葉があります。フランスの詩人ラ・フォンティーヌによるもので、ローマ帝国というものがいかに強大であったか、よくわかります。今では、ゴールにたどり着くための道筋は何本もあるということ、考え方がいろいろなことに当てはまる、といったような意味合いで使われる慣用句となりました。

実際、ヨーロッパ圏のほとんどの道路はローマに通じているそうです。主要な幹線道路がローマに通じているので、芋蔓式にその幹線道路につながる道と言う道が繋がっているという話だそうです。しかし、日本が島国であるように、道が繋がっていない場合もあるわけです。今している努力が果たしてローマに続いているのか、ローマが見えるまではさっぱりわからないわけですが、少なくとも、ローマに通じているだろうと信じる方が正気が保てるでしょう。小さい一歩しか踏み出せなくなったとて、今までの努力を捨てるよりも、進むことを選ぶなら、その小さい一歩で進むしかないのです。大きな一歩を踏み出すことはあくまで手段としてより良い結果であって、目的ではありませんので、どんな一歩だろうと深く考えすぎることはないでしょう。しかしそういう場合、進んでいるとか努力とか呼び名を付けると、それさえ嫌になってくるので、知らぬふりをしつつ、じんわり進んでいると、わりと長続きするように思いました。

悩むということの根源は、不信感や自身の無さから来ます。そしてそういう感情はすべてひっくるめて、一歩を小さくするものです。そういう、足に刺さった棘は抜いてしまった方が、進みやすいことは間違いありません。しかし、刺さる棘を外すためにその場に座り込んで考えても、その棘が元気な奴だと、外すときにかえって大きい傷がつくかもしれないので、では傷が小さく済み、なおかつ棘が外せれば……などと要求が膨れ上がって、その場で座っていたのが、座敷になり、寝袋に、テントに、もういっそ露店商でもやりながら、と進むことはどこにいったという具合になりやすいです。

気になることがあっても、すぐに解決策が思いついてくれないときは、その気になるのが膨れ上がる前にスっと立ち上がって、考えないことにして、歩きながら考えたほうがよいでしょう。

すべての道がローマに通じるならば、この道もまた、ローマに続くと信じるばかりです。そして、その道を、進むに限るのです。

 

できるなら、さっぱり道に迷ってしまって、途方に暮れてとぼとぼしていようと、案内板を探す努力くらいだけはしたほうがよいです。道を進むということも勇気のいることなので、もし歩き始めるに必要な勇気が膨らみすぎて二進も三進も行かなくなった、ということが起こることも考えられます。そういうとき、後押しするものを探す、何らか手がかりを探す、というのは効果的です。

探す、といっても、最悪頭の片隅に置いておくだけでも十分です。看板がおいてあって、『もしかしてこれは案内板なのでは』という発想がなければ、まったくの素通りをやらかしてしまうかもしれないので、覚えておくだけでも十分前に進む努力をしているといえます。

 

戦い方、歩き方を変えるのも一考です。そもそも、辿り着くかもしれない道を信じながら歩くというのは孤独感にさいなまれたりしやすい、もっと言うと被害妄想が大きくなることがあるので、形はどうあれとりあえず一歩でも多く歩けばよいのですから、競歩の選手になるためにこの道を歩くんだとか、実はこの道の先の方に重力が感じられる体質で仕方なく歩いているんだとか。

目標のために歩いているんだという感覚そのものが錘になっている場合もありますから、それを思い切って外し、そして忘れたと思い込んで、実は進んでいるんだというのもアリです。ローマが見えたころ、そういや俺ローマ目指してたなくらいの感覚だろうと、結果は同じ、ローマに辿り着いたという事実が残ります。

 

 

と、いろいろに考えてみましたが、スランプが来たと思っても、それにまとわりついてくる嫌な感情たちからうまく目をそらし、なんとか続けるのがよいように思います。もちろんそれ以外の手段を持っておけば、不測の事態にも対策出来ますが、力任せも立派な解決策であるということを忘れていい理由にはなりません。そしてそのスランプのおかげで、復調の楽しみ、ひいては本来その行動が持っていた楽しみをより鮮やかに感じられるようになったのならば、それはよい事なのです。

まあ、暗雲の中をもがくことなく、そのままでいる方が、ずいぶん気が楽でいいやあというのもまた、間違った思考ではないとは思いますし、そこまでの旅の武勇伝をもって酒場を開いたら大繁盛、なんてのも考えられますものね。この場合、僻みっぽい店主よりは、失敗を笑い話に変えてしまおうという思い切りのよい店主の方が好かれやすいのだということを覚えておいてもいいかもしれません。

そんな感じです。