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同年代とすれ違うって怖くね

ほどほどの距離感、というとアンニュイ漂うそこそこの歳いった茶店でキャラメルマキアートなんかシバいてるねーちゃんともおねーさんとも取りがたい本とか読んでみちゃう系OLみたいですけれど、そういう話題。

なんか最近のエントリと似たような話題でしたね、そういえば。

laz.hatenablog.jp

 

長いのでいつもの如く概要を書いておきたいのですが、今回ばっかりはカラッポ、与太です。ヨタ*1暇な人だけどうぞ。

 

 

最近、同年代と話が合いません。確かに昔からアイツは変な奴だという認識を持たれていたようですけれども、それでも人と関わりを持っていました。友達百人できたんじゃないかしら。ですけれど、どうも浮世離れしていると思われているのか、というか同年代の行動を鑑みるにやはり自分でもそれなりに地に足がついていないというか、別の場所に立っているような気がしてきます。そんなわけなので、遊びに誘ってくるといえば、よっぽど気に入られているか、長い仲か、それとも相手がかなりの曲者だとわかっていないんじゃないかという人くらいで、まともに遊んだことがない…少なくともハイカラな、ごてごてした金を使う遊びというのはあまり縁がありません。

そういう遊び、たとえばカラオケひとつとっても、ある程度作法なんていうものがあるわけです。一応、その手の作法は少なくともタンバリンだけ持って座って飲み食いするだけだとあまりよろしくないということだけは知ってはいたのですけれど、やはりそれだけでは足らずといったところで、名目上、活動集団のメンバーだから呼ばれていたのが、ふっと抜けてみてぱたりと呼ばれなくなりました。どうにも、呼ばれようという努力も自己主張も、する気が起こらず。相手も相手で、厄介払いができるならそれに越したことがないといった具合でしょうから、なんとなく絶望的にヒマになったから、話し相手くらいにはしてやろうかなということで、わたしは社会の中に安住を許されていたのであったわけです。

 

あるときふと思い立って、誰も話さないで一年を過ごすとどうなるんだろう?という壮大な計画を実行に移しました。そのとき、あくまで話し相手かにぎやかしとして認識されていたと思ったので、しかも地味にアクの強い我が家であったために言い合いやら陰湿なのやらは別に気にもならなかったので、まあいじめられっこラインまで飛び出さないくらいに存在感を消してみたらどうなるのか、気になっていたのです。

自分から何も話さないだけで、すっと人間関係はなくなりました。別に才としても突出した点はなかったので、悪目立ちするということもなく、逆に運動不足がたたって何か不都合があっても、自分も、誰も、騒ぎ立てないから結局目立たない。事はうまく進んでいきました。

実際のところ、他人とあまり深くかかわることは得意ではありません。というより、自分は人見知りであったようなのです。今までは、誰よりも自分の方が独特のテンポを作っていたようで、うまく自分のペースに運べたからこそ、気が付かなかったようでした。相手のペースになるとてんで、言葉が出てこないもんなのかと。まあこの手のは、多分に慣れが関わっているでしょうから、相手のペースに乗せられてそのまま待っていれば、いずれよちよち歩きくらいはできたのでしょうが、それはやめてしまいました。

自分の得意な間合いと言うと、ひいきの古本屋の店主に『やってるかい?』と聞いて、天気の話を二三、『また来るよ』くらいのようで、それ以外となるといわゆるオタクにありがちな、自分のテリトリーならいくらでも話せる…といってもそれでさえ、たまたま詳しかったから口を滑らせるだけで、自分にとっては天気の話と大差はないのですが…というところでした。天気から踏み込んで身の上話になったあたりで、はたと興味がなくなる…世間話なんて、近くででっかい犬が逃げたよとかいう話も、なんであれば自宅の車がコスられていたことでさえ、『やーねー』でも『こわいねー』でもなんでもなく、『散歩に行きたかったんだろうよ』『むしゃくしゃしてたか慌ててたかだろうよ』くらいの興味しかなく、しかし作法としてはオーバーリアクションが勝手に出てきてしまうので、『えー!』とか言ってみるんですけど、興味がないのでそれっきり。ぎこちない会話しかできなんだ。

 

しかし、ただ無口になっても、人畜無害になったとはいいがたいようです。俺・オン・ステージな人種からすると、A席のチケットを買ったにもかかわらず、ただぼーっと眺めているだけの観客のように、いけすかねえし、やりづれえ、といった感覚のようで。ノってるかーい、は、果たして如何なる演奏を見せていただけるのだろうかと腕組み座られるよりも、いえーい!で返していただきたいご様子。まあそりゃ、ミュージカルやオーケストラなんかみたいに、ひと段落着いたらその興奮を拍手で伝えて、今度は演者が高まってきて、さらにいい演技をして、また興奮したから拍手が出て、という相乗効果を狙う、もはや文化といった側面がありますからね。まあ言わんとしてることもわかりますが、文化だからとりあえず拍手して口笛吹きゃいいと思ってるやつも少なからずいるだろう、と水を差したくもなり。

わたしはそうでもないのですが、彼らをはじめとする人たちはレッテルや第一印象が大事なようで、はじめ無口だったために、わたしはまともに意思疎通できない人間なのだという感じで食って掛かられるので、いえーい!って言うべきなのをよく理解していて、完璧に合いの手を挟んだところで、結局拍子抜けするらしいので、多分無口である時点で近寄るべきではない、完全に別の人種なのだと思うべきなのでしょう。

といっても、同じことが逆の方向にも発生します。本の虫とか、絵描きとか、そういうあまりしゃべらない人たちと交流が出来てきます。これはきっと、同じ人種だから喋りやすかろうという具合なのでしょうが、いえーい!でも、腕組みでもなく、わたしはあくまで観客席で演者の化粧の具合とか、ピアノがスタインウェイだとか、コンバスってでけーなとか、非常にどうでもいいことを考えてぼーっとしている人種なので、話せないこともないですが、まあ、かみ合わない。とはいえ、相手はそこまで会話の経験がないか、あるいは会話を繋げなくてはという使命感から来る緊張感のためにか、多少かみ合っていないのなんか気にならない風なので、こちらは多少気が楽ですね。

 

で、そんなことを続けていくうちに、会話がかみ合わなくなりました。そのときちょうど明治大正らへんの文学にハマっていたというのもあるのでしょうかね?今日は午前中であがりだ、というときに、『半ドンの日だね』って言うと『?』らしいので。最近だと、ケガをしたらツバかポン酒でもつけときなとか言っても、消毒はマキロンオキシドールしか知らないとか、そもそもポン酒って何?からはじまるなどして。キロキロとヘクトデカけたメートルがデシに追われてセンチミリみりとかもそうですかね?

むこうもむこうで、シチューのルーとか、パリピとかいう新単語とか、こちらからすると『?』な文化があったり。シチューは小麦粉からじゃねーの?とか、ネットスラングのパクリブームはどこいったんだい?とか。

別に通じ合わないからといって、寂しくなってうさぎさん死んじゃうというわけではなく、通じないのかぁとか思うだけなのですが、それにしたって、あからさまにアナタドコノクニノヒトデスカ?って顔をせんでも、意図するところを聞いてくれればいいのに。

性格で通じ合えないのは、その違いを含めて面白い、違いだけでも面白いけれども、議論を戦わせたって面白いわけですけれど、…といえどもそう思う同年代は少ない…言葉が合わないのは致命的です。いくらなんでも、辞書を片手に会話を強いる、しかも辞書は辞書でも死語辞典を紐解かなければならないというのは、相手がゴジラでなくても敬遠球。

わたしたちの先輩方は、言い回しとか様式とかが古いと言われて絶賛格闘中でしょうが、まさか自分までそんな自体に見舞われるなんて。精神ばかり老人になってしまって、というような書き出しの箴言がどこぞかにあったような気がしますが、それでしょうかね。いかんいかん。

 

とはいっても、別の年代、別の人種を理解するにしても、それらと同調する必要なんてさらさらなく、ただ理解するか議論すればいいというだけなので、あくまでいろんな人が垣間見れて楽しいからよいのですけれど。

そういえば、日本人の心が失われつつあるというような話を耳に聞きますが、失なってしまったでないあたり、変化してるよへーそうなんだ、で受け流していたのですが、どうも最近のひとたちと比べると、その『日本人の心』は少し消極的なようで。人様に迷惑がかかる、後輩だったらつべこべいわず奉仕とか、理不尽に怒り出したりパシる先輩とか、先に行ったような店に入って今やってる?とかそういうことは、あまり教えられないようです。親御さんも時代とともに変わり、いくらマナー違反だからと言ってもカンカンに怒ってブン殴って家の外に放り出すような、子供にとっては涙ちょちょぎらせた記憶ばっかりの親御さんは少なくなっているようで、しかも学校機関では少ないどころか居たら社会から消されるので、なおさら、注意に注意できるような環境でも、頭に慣習がこびりつくような環境でもない模様です。いじめてみても、相手が泣いたら逃げるとかそういうんはないようです。ない、というよりも、知らない。教えられても、まして、一応時代とともに洗練された『先生に怒られる前に逃げるタイミング』とかを考えつかないようなので、文化はどうしたって違ってきます。

文化の違いを前にして、今までの文化の意味を考え、これからの文化の意図を汲み取り、といったプロセスを踏んでやって、それでも今までの文化も大切ならば、まあ若造と言えど大人になったのにまだ知らんのかというあきれもあるでしょうが、教える必要がありそうですね。そう、たとえばカミナリ親父の話は、ある程度反省したらあとは俯いて深く考えないようにするべきですから、アレを本気に受け取っても、まったく受け取らなくてもてんでだめなので、そういうことを教えてやるべきなのやもしれません。

そう、腕組み連中も、いえーい連中も、まったくへなちょこな演奏を前にして、何らか意図があるのではと思う前に、さっさと帰ってしまうでしょうから。

 

 

こじつけで終わらせておきます。多分これはひじょうにどうでもいいけれども、終わりが遠い考えだろうから。

*1:10の24乗