ツァラトゥストラについて二三の四方山

ツァラトゥストラはかく語りき』というと晩年のニーチェの代表作です。グレートブックスの一冊として、あるいは哲学として読み継がれる名著なのですが、いかんせん尊大であり、意固地であり、そして言い回しがめんどくさい。

なんだかんだ面白かったのですが、どうにもおすすめされる本ではないご様子でしたので、対抗馬を出しつ、感想を出しつ、そのへんの四方山。

 

 

まず、ツァラトゥストラの作風ですね。

考える男ツァラトゥストラが、自分で考えたことを人に伝え、そして己の身を鍛えるため旅に出かけるというマッチョ物語……を比喩に、ニーチェの考えを書きつらねる、という本です。

あの本は、読んでいたところ、いつも教鞭をとってくださる先生に、そんな本は読むだけ毒だという風に言われます。自分自身読んでみても、他人に薦めたいとは思えないのですね。作者は童貞だし、文は中二病だし、アホらし、とかボロクソ言われてたりする、そんな本です。

文体が難解で、比喩もごった返していて、紐解いてみても高慢ちきで、読ませようという気がないのではないか…そういう文章なのですが、なぜそんな嫌われる文章になっているのでしょうか。

 

まずあれは、哲学書と言われることがありますが、世の中に出ている『哲学』というよりも、彼の思想をまとめた本で、『あいつ嫌いや…』というのがずけずけ出てきます。普通に考えて、そんなカラコロくじみたいな本出版したら大炎上で、住所特定ですから、目につかないようにするでしょう。どうしても残しておきたいが、しかしあまり多くの人の目に触れてはいけない、そういう本はたいてい暗号か、難解な比喩か、いっそ和算のように書かないけど考えてみてねとかいうスタンスをとることがあります。ツァラトゥストラはこの一種ではないかなと考えます。つまり、本を開いた時点で読ませようという気がしない時点で、読み手を選別する必要がある可能性を疑って、不測のムカツク文章に出会ったとしても怒らずに意図を読み込もうとする体力と心構えが必要になります。用意が無かったら、びっくりしてしまいます。

それから、ニーチェは『ドイツ人』です。ショウペンハウエルが『著者と文体』でくどくど文句を並べたように、ドイツ人の文筆家は難解でボヤっとした言い回しを好む傾向にあります。難解なのは、お国柄というのも考えられます。

もうひとつ考えられるのは、比喩の性質です。比喩は、言いたいことのシルエットだけを抜き出して、シルエットの似通った別のものを代わりに置いておく行為です。もとの考えも、用意された言い回しも、どちらもある程度知っていて、シルエットもよく描けるのなら、すらすら比喩を理解できるでしょう。が、時代が違う、シルエットも捨象気味、それにもとの考えも人によっては思いつきもしないことですから、読み解くだけの事前知識か、トンチかが必要になります。

あとは、単純に中二病すぎる形になっちゃったので、生理的に好かん、というのもあるかもしれませんね。

 

 

わたしは岩波スキーなので、ツァラトゥストラ岩波文庫のものを読みました。それの感想ですね。ひとまず上巻を抜粋しつつ。

いつか、あなたがたの崇拝が崩れる日が来たらどうするのか?倒れてくる彫像につぶされないように、用心するがいい!

信仰者そのものに一体何の意味があるだろう。あなたがたはまだあなたがた自身をさがし求めなかった。そこでたまたま、わたしを見出すことになった。

すべての神々は死んだ。いまや、わたしたちは超人の生まれることを願う。

『贈り与える徳』より

 ツァラトゥストラは作中でたびたび出てくる、『超人』への憧れを示します。『神様なんか信じねえ、信じるのはいつだって俺たちの腕っぷしさ!』ってな具合です。ちょっと違うか。まあいいです。超人になるため、火山を、雪を、進み進んで、誰も知らぬ高みへ進めや進め。マッチョですよね。これを実際に言ってしまうのがニーチェの格好良さであり、中二病成分なのです。

宗教は当初の目的を忘れ、形骸化と腐敗を重ね、そして宗教がために失われようとしている数々の考えがあるのだという意味合いで、『神は死んだ』と表現したのではないでしょうか。

 

わが友よ、のがれなさい、あなたの孤独のなかへ!あなたは、いわゆる世の偉人どものひきおこす喧噪によって、耳をつぶされ、また世の小人どもの毒を持った針によって、刺され続けているではないか?

孤独が終わるところに、市場がはじまる。そして、市場がはじまるところ、そこにまた大俳優たちの巻き起こす騒ぎと、毒を持った蠅どものうなりがはじまる。

『市場の蠅』

ツァラトゥストラは、基本的に世の騙される側の人たち、向上心のない人たちを軽蔑する面があります。

誰よりもマッチョになるには、『マッチョになったって無駄じゃね?』と水を差してきたり、『すごい筋肉だ!ずいぶん頑張ったねえ』と勝手にピリオドを打たれると、マッチョライフが終わってしまうので、困ります。そしてその困窮は理解されがたいもので、あげく『ホメてやったのに』とかキレられるので、ヘタにホメられても邪魔なんだって!という姿勢ではないかしら。

この、『市場の蠅』では、普通の何でもない影響されやすい人たちを、宗教や慣習に無理やり引き込んでしまって、結果的に彼らに選択も疑いもさせない『大俳優』たちに、なんてことをするんだ、それじゃあ種がダメになっちまうだろうが!といった批判を、『蠅』になっちまって手遅れの人たちを含めて『あーあ』という内容であると思います。

 

英雄は怪獣どもを征服した。さまざまな謎を解いた。しかしかれはさらに自分の怪獣どもと謎を、救い出さなければならない。それらを天上の子供たちに変えなければならない。

力が慈しみと変わり、可視の世界に降りてくるとき、そのような下降をわたしは美と呼ぶ。そして、力強い者よ、誰にもましてあなたから、わたしはその美を要求する。あなたが慈愛に達することが、あなたの最後の自己克服となるように。

『悲壮なものたち』

 闘うことは空しいですが、その空しさに浸ることでどこか満足している自分がいたりする…。そういうのを『精神の苦行僧』とニーチェは呼んだのではないでしょうか。そして、そこから解放され、さらに高みへ引き上げてくれるものは『美』であるのだと言います。

わたしが数学やら文章を好むのは、『資格』として『強さのバロメーター』としてではなく、楽しいからです。それらは副産物として存在するのみで、その副産物への望みばかりが頭をもたげるようになってはおしまいです。この楽しいという関係性が、先ほどの美や闘いなのではないか、と思ってみています。

 

 

さて、わたしは文学の徒でも哲学の徒でもありません。ただのひとです。ただやん。

ですから、いかに感想を並べ立てたって、ニーチェのことを考えたって、見当違いである可能性が大いにあります。わたしは、本の目的は自省にあると考えます。自分の考えがあったうえで、本を反響板として、自分の考えの立ち位置を知り、そして考えを言葉にするきっかけをつかむために。本を読んだときに、ここが印象的だったなあというのは人によって違いますが、その印象的だと思った部分が、あなたの中で考えていることがら、『大事』なのだと考えます。

本当の意味なんて、本当はわかっていないのかもしれない。今理解したことは完全に、自分を通って屈曲していないとは言い切れない。少なくともこの考えで読み進めて、違和感がなかったのだから間違っていないのではないだろうか?その程度です。

ツァラトゥストラはカッコイイ文章なので、ヘタに自信に火がついて、ゴテゴテとした似合わない鎧だとも気づかないで、つい見せびらかしに出かけたくもなりますし、それだけの本なのだ、と言われることがあります。しかしまあ、本と出合って、その本が自分の本質を引き出して、見せびらかして恥をかくまで含めて、面白いものです。本を読んでカラッポだなあコレ、と思ううち幾分かはその本のプリズムがたまたま自分の考えを乱反射させてしまっただけであると思います。まあ、曲解を経る理解の面白さ、奥深さといったところでしょうか。

 

解釈には正解がないと言われますが、文学的には作者の意図が正解となります。そちらの世界もまた面白いもので、限りなく知りようのないクオリアを越えた先の、理論に裏打ちされた正解というのは興味深いです。

今回の記事中、『いやわたしはこう思ったね』『こういう歴史的背景があるから違うよ』とかあれば、ぜひお寄せください。

しかしまあ、名著をざっくばらんどころかザックザクのバッラバラにお店を広げてしまいました。いいのかな、こんなこと。