旅と、旅の途中について

冬頃の寒い旅についての話です。いつもと違う趣向で書いてあるので、ちょっとおもしろいかも、と言うか書いてて面白かっただけなのですけれど…。

ついでに、思い起こしたのでフレーム問題にも触れます。

 

 

旅の前に準備をはじめるのはいいでしょう。防寒着や、荷馬車、水なんかたくさん揃えて、ありったけのものを時間をかけて用意するのもいい。あるいは、塩とナイフとマッチだけでさっさと出てもいい。旅の途中で近くの街に寄って手に入れてもいい。なんであれば、そのあたりの草むら、森、川から調達してみてもいい。尽きる前にたどり着くよう走ってもいい。準備とは、その当人の能力と、道のりによりけりです。なんなら、能力とは機転がきくとかでさえかまわないし、食べ物なんて釣り竿一本だけでもいいかもしれません。けれど、それがもし隣の家への旅路なら、荷車に馬に水に食料に塩に地図にとは、必要ないかもしれません。

寒さは、緩やかに心身を蝕みます。それでなくとも、はじめは急ぎ足だってできても、そのうち進むのを拒むようになります。暑さ寒さ、長い道行きを乗り越えて、体は疲れます。火を焚くなり、少し体を動かしてみるでも良ければ、平坦な道の中で見かけた草花に名前をつけながら歩いてもいい。勢いをつけて走るでもいいけれど、体がうまく動かなくなってから、寝床を、食事を、用意することは難しいかもしれません。

別に冬には限りませんが、もし地図を持っているのなら、最短距離を突っ走ってもいいし、脇の道に入ってみるのもいいです。どちらもまったく違う旅になるでしょうから、どちらがいいとは言えません。通常、地図に書いてある道は舗装されているか、それでなくとも通りやすい道のりですから、もしかするとけもの道を歩くほうが早いかもしれない。なんにせよ、自分で選べるのなら、楽しい旅路を選びたいです。

 

さらに歩を進めれば、一向に景色の変わらないことに、辟易するかもしれないし、無力感を感じるかもしれません。そういうとき、えいえいと声を上げたり歌を歌って考えないようにしてもいいし、無力感をしみじみと感じるのは疲れからだろうと疲れないように歩いたり、厳しい道のりだと心づもりをしたり、適温を保つように着替えながら進んでもいい。あるいは、たどり着く果てのことを思い起こしてもいい。なんにせよ、その無力感が頭をもたげることがないようにうまくできればいいのだけれど、もういっそ寒さを守るために火を焚くことも、歌うことも、覚悟を決めて立ち上がることさえできなくなることもあるかもしれない。できるならば、それらが大きくならないように杭が打てるといいし、大きくなったとして体を動かすことさえできれば、歩いているうちに忘れてしまうかもしれない。とくに、立ち上がること、起き上がることの難しさは、日毎日毎に立ちふさがることになります。それで立ち上がれなくなったとして、少なくとも火さえ焚いておけば、たとえ望まなくとも体はそのうち復調しますから、疲れから来る暗い感情に押しつぶされてしまったら、それに囚われながらでも、火だけは重要かもしれません。

長い旅の中、歩くことは景色が変わる、道は開けるなどの細い希望を失わせるかもしれません。火を焚くことは、安全に夜を過ごし次の朝に目がさめることを望まないときに、億劫になるかもしれない。歩くこと、食べること、火を焚くこと、すべてが恐ろしくなってしまうかもしれません。そうなれば…。

この道を引き返してもいいかもしれない。もしかすれば危険な道のりに命を落とすかもしれないので、目指す先のことなど忘れたほうが幸せかもしれない。そこで露天を開いてみたらいずれ大きな街に発展するかもしれない。ヒッチハイクできるかもしれない。進むべきかもしれない。それらについて、頭のなかに降ってきた判断を吟味する時間を与えても、与えなくてもいい。少なくとも、少しの時間と勢いを確保したければ、歌いながらであれば歩き出しやすいこともありました。それだけで消える恐怖心というのもあります。また、その道程は極限まで突き詰めればそれはただの道でしかなく、茨の道と思っているのは疲れや何かに、想像の行く先を歪められているだけかもしれません。ただ道があり、ただ歩くだけのことを、いかほど自分の中で大きくしてしまっているかを認識するだけでも、なにか発見があるはずです。

いくつか言えるのは、この手の迷いを振り切る、得意な一手を持っていると強いということと、それだけに頼り切りになると歯が立たなくなったときに大変だということです。いくらか用意するのも手ですが、どちらかというと柔軟にだましだまし、だましていると忘れてしまうくらい巧妙にだましてしまうのも手です。もともと旅というものは、大なり小なり何らかの障害を乗り越えることとなり、またそれらは人に、旅により様々で、その解決もまた、いまそこにいる旅人と、持つ道具と、その周囲の自然だけでできることしかなし得ないのです。問題を解決するには方法はいくらでもあり、方法によっては解決したことで得るものの形が異なることもあります。なんであれば、解決しないという解決方法さえあり、どのような方法を取ったところで、主観において決断しなければならないことに変わりはありません。ええ、統一的な解決方法などありませんが、少なくとも、朝がはじまって、夜が終わるまで、判断することはいくらでもやってき、それらの判断の処理を解決するわけですから、形はともかく『解決するということ』だけは統一的にやってきます。用心をするに越したことはないでしょう。

 

旅というものは限りがありません。たとえ辿り着いてさえ、辿り着いてからの別の旅が始まるのです。あくまで、目的のための手段のひとつなので、言ってしまえば人生のどこを切り抜いても旅をしないということはないのです。先の通り、いくら準備をしたといえ、いくら予測をしたといえ、万全だということはありませんから、そういう旅から旅への中で言えることはそれなりに言い尽くしたあと、『よい旅を』で締めくくるしかないように思います。

 

さて、そろそろ冬ということで、そのような文をこさえてみたのですが、結局冬と大きくは関わりのない文章となりました。ちょっと趣向も違いますけれど、これはこれで面白くこさえられたんじゃないかなと思います。

(主題の遠くを飛んでいるのは、言っていることは書いてあるまま旅の方法だけれど、文章構成だけ、とある科学者の伝記のを拝借したため、読む人によっては違うビジョンが見えるかもしれないのです、何事も実験、実験)

まあ、そんな感じ。

 

 

 

 

 

 

ふと思い起こした余談ですが、人間は、問題の解決においてなんとなーく、『ああ、この手の問題はどうせこの方法でいけるだろうな』と予測できます。そういう、『この手の問題』の解決法を人工知能ではフレームと呼びます。で、現在は『どの手の問題』なのかを予測する方法をどう計算させたものかな、という問題、フレーム問題で皆ウンウン唸っています。

かなり決まりきった、簡単な操作ならば、人間がはじめから判断の決め手をインプットしとけばいいのですけど、それを機械が勝手にインプットしてってくれたほうが便利なのですね。複雑なのを勝手に予想してくれるとなおさら良い。

人間はどのように問題を噛み砕いて、どのあたりの知識を使えばよいか高速に判断しているのでしょうか…?わたしは、『理解する』『解く』のふたつの意味を持つ解決という言葉を用いて、この問題を解く手がかりである、科学として使えるレベルに落とし込んだ人間の脳の中身の推量関連の計算を、『統一的解決法』と名付けておきます。人間の脳は統一的に、問題として処理をしているという仮説のもと、フレーム問題に取り掛かる所存でおります。

なんかこう、フェルマーの最終定理じゃないですけど、フレーム問題って要するに『人間がやってる予想ってどうなってんだ?』という話なので、とっつきやすくていかにもすぐ解けそうじゃないですか。わたしがやりたい分野は、すでにずいぶん研究されてしまって、フレーム問題なんて解決しなくてもさほど支障はないですが、解決してたらちょっと便利になりそうなので、関係がないとは言い切れません。科学者を目指すような人間は、大きな栄誉が得られるのはごく限られた人だとわかった上で、だけどそれをもらえるほどのことを、いつかしてみたいなと、楽しい研究の合間に、ちょっとは思っているものです。探検家というのは、財宝よりもむしろ旅をするのが楽しくてそうしているんでしょうが、やっぱり誰しもインディージョーンズみたく、財宝を夢見ている節がちょっとはあるでしょうから、科学者と似ています。そして、その財宝の匂いのする山の前に立つわたしもその一人というわけでございます。

さて、夢見る前に、まず目の前のことを片付けるにも手一杯なので、このへんにしておきます。