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教えることは誰がやっても

未熟な人が教鞭をとるというのは、自分が教える側になってしまって何のために金を払っているんだという怒りなのか、とにかくタブーな感じ。ただ、教えることの意義は、教えること以外にも考えられます。

 

 

ラバーダッキングプログラマの連中はいうのですが、自分が組み立てた設計図を持って行って、果たしてそれでいいのかどうか、ゴムのアヒルちゃんに教えてみればわかるという儀式があります。人に教えられるくらい洗練されているほうが、設計図を他の人に渡しても作業の引き継ぎが簡単になるほか、よいものができることが多いという経験則です。本当は黒魔術を書いた方がいいものが出来たりするのですが、そうなるとその人以外理解できないので、というか書いた本人もよくわからなかったりするので、お仕事にならないというのを避けるためにこうしています。

教えられる側は実験台ですけれど、教えた本人にとってはよくわからなくて言葉に詰まったり、はたまたすらすら読めたり、そんでもって必要ない部分に気付いたりしまして、それなりに便利なのでございやす。

ハウツー本やそれっぽいブログを書くというのは、読者の層が初心者だけでなく、よく知っている経験者がふらっとやってくることもあり、そこにある考えが間違っていれば正してもらえる可能性があります。まーた初心者がテストベッドですけど、少なくとも教えるという構図にメリットがあるという提案です。

 

教えることというのは知識の伝達が主目的とはいえ、航路はさまざまです。知識をポンとおいて、そこに教えるという肉をつけるとき、理解を助けてもらいたい人、理解できても足がすくんでしまった人、自分と違う視点を探す人などのニーズを考えてくみ上げる必要があります。これが一筋縄ではいかないので、どうやって説明してやろうか、つまり、自分が説明しようとしていることはなんなのか、うなる時間を長く取ることになります。

本当に正しいのか考えるというのは様々な手法がありますが、教えるというのはひとつの手段だと考えます。これが、教えることの意義が、教えることだけではないという意味です。

 

ただ、教育の現場にこの原理を持ち込むことはあまりよいとは言えません。初心者にとっては、間違っているかどうか判断しがたいので、間違った情報を植え付けることにつながったり、間違いの検証に時間を使わせてしまうということが考えられます。絶対に信用できる知識が口伝できるとは限らないとは、ま教えるに足ることだとは思いますけど、それでいいのかベニー・ボーイ。

ゴムアヒルを机の上に置く分にはまったく、いや、壁の薄い家だったら隣の住民に変人扱いをされること請け合いですが、副作用なく使える便利な指標だと思われます。

 

考えが洗練されているか確かめられるというのは、あくまでピーラーのようなものなので、問題を先入観なく考えるという包丁を扱う修行は欠かさないほうがいいとはわたしは考えますが、かといって指を切り落とすこともないだろうとも思います。

そもそも、考えが洗練されてなかろうと、ブドウやサツマイモは皮をむかないでも食べられるわけですし、包丁研ぎに躍起になって柄しか残らなかったなんてことのなきよう。

 

リズム感がいいだけなので、タイトルが過激になってますが、考えるのが面倒なのでこのへんで。過激すぎるようなら差し替え検討しますのでご連絡。

そんな感じ。

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