旅の道具と知識は持てる分だけ

旅の道具はリュックサックに入れて背負える分くらいしか持てませんが、知識もそんなものだよなという話です。

このテーマで想起されるいくつかを書きました。

それではいってみましょう。

 

 

一度見ただけの記憶とはあいまいなものです。さっき気になるものを見たから今も覚えているのであって、多分明日になるころには忘れてしまうというのがだいたいでしょう。思い出すに十分なイメージが頭の中に残っている間だけ思い出せるわけですが、人間は睡眠時に記憶を整理します。

何の本だったか忘れてしまったのですが、使った記憶は取り出しやすいところに、使わなかった記憶は奥のほうに仕舞われて、後日実際に使うときにまた作業机の上に乗せられるというイメージで、忘れるとは取り出しづらくなるだけで、本当になくなるわけではないのだそう。ただ、山積みの記憶の奥深くに眠った記憶を取り出すのは並大抵のことではなく、そう考えると、人間は手が届く範囲の記憶で戦っていることのほうが、随分多いのではないでしょうか。

手入れをしていないと虫が食ったりさび付いたりと、使いづらくなるのは図書館も頭も同様です。定期的に思い出すということの意義はこんな具合です。

手入れを何度もやってるとこなれてきて、時間を掛けずに、長く使える手入れができるようになってきます。こういうのはエビングハウスの曲線、忘却曲線で表されています。

 

旅の道具はリュックサックに入る分だけどころか、あまり多くの荷物を入れるとお土産が入らなかったり、取り回しが悪かったりするわけです。そのため、泊まったホテルの洗面台とドライヤーで肌着や下着を洗濯するとか、アメニティを使うとかして、荷物を減らす工夫をします。工夫を繰り返せば、似ている知識はより抽象的になり、ひとつで多くをカバーできる知識にできます。

こういう道具が備え付けられているということは、荷物が減るだけでなく、それらの心配をせずに旅行ができるわけです。自分でもホテルを作ってみるというのはどうでしょうか。つまり、作業場所でしか思い出さない記憶ははじめから作業場所に備え付けておけば、すっかり忘れても心配がいらないわけです。

 

記憶できること、理解できることは、『ここから見える部分についての』という但し書きが必要です。色々な場所で見てみたり、記憶と照らし合わせたり考えてみたりすることで、見えていない部分を明らかにすることができます。

時に発想の飛躍が必要であれば、誰かに教えてもらったほうがいいかもしれません。かつての天才たちが頭をひねって叩き出した産物を、自分で考えてみようとすること、それに気付いているにしろいないにしろ、無謀な話です。検索するとか、本を読むとかはこのようにして意義をひとつ見出せます。

ちくまや岩波などはこの手の本を多く揃えています。あまり馴染みがないかもしれませんが、600円とか多くとも1000円いかないくらいで天才の講義が聞けるとすると安いものです。

 

色々なアイディアを書いてみましたが、何か持って帰っていただけるものがあれば幸いです。

そんなかんじ。